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日本の音楽界は、はっきりいって、レベルが低い。断言する。(アニメとか、マンガと比べると、雲泥の差である)

それは、なぜかというと、本来、音楽的な才能が、確実にある人を、評価せず、宣伝せず、

その代りに、いわゆる、アイドルとか、そういう見た目主義に走るからだ。

なので、音楽性がない上に、見た目も、その時に西洋ではやっているものの、真似だったりして、20年くらいすると、とてもじゃないけれど、見れるようなものではない。

が、しかし、中には、本物もいた。

本物というのは、たいていの場合、小さい頃から、音楽的才能がある人だ。その人にとっては、音楽とは、何か、特別なことではなく、まるで、朝起きたら、毎日やることのように、普通のことなのだ。

そういう人、たとえば、坂本龍一とか、天才型人間は、見た目も良かったから、個性的だったので、売れたが、当時の、いわゆるアイドルとかいってた人で、残っているのは、誰もいない。いずれ、誰も覚えていないということになるだろう。

本来、才能がある音楽家が、ないがしろにされる、という意味では、この国ほど悲惨な国はない。音楽よりも、ルックスとか、雰囲気が重視されるからだ。

では、他の国が、そんなに素晴らしいかというと、実は、そうでもない。でも、何かしらの、斬新さを、本質的に、音楽的に優れている人が、何かしらの形で、普遍的な形(20年後、30年後に聞いても、見ても、味があったりする)を残せるようになっている。

が、しかし、ここ10年くらいは、何となく、普遍性とまではいわずとも、音楽的個性(純粋に音だけ)が、出ているバンドなどが、以前よりは、各段に増えたが、

まだ、音楽的な、奇妙さ、いわば、日本のアニメや、ホラー映画とか、そういう、世界の誰でも、

あ!これ、わかる!

と、なぜか、わかってしまう、という、面白さ、とか、何かがある。そういう意味では、日本の音楽は、まだ、ダメだ。

ところが、私は、本当はもっとできるんだと考えている。ただ、日本国内的に、今までがあまりにも、一部の特権がある人が、音楽業界を牛耳ってきたので、本来、才能があるというか、本質的に生まれつきとしか言いようがないような、特殊な才能としての、音楽家が、発掘されるような時代は、まだ先もしくは、こないのかもしれない。

絵画芸術からマンガまで、視覚的な世界では、奇才、鬼才、奇人、秀才、天才が、これほど評価される国なのに、なぜ、音楽の世界では、そうならないのか?不思議でならない。

アメリカに住んでいたとき、なんとなくわかったのは、日本の音楽界では、これは、日本のビートルズであるとか、日本のマドンナであるとか、要するに、真似している、場合が多い、というのが目についた。当然、そんなものは、本家では、相手にされないどころか、まるで、興味なし、である。

しかし、本質的に音楽的に画期的なことをやるような、小さい頃からの才能がある人は、必ず、そういう才能が評価される。それが、私にとっての坂本龍一氏であった。こういう発想の転換は、かなり、難しいと思えるが、日本は、いずれ、そういう道を通らないといけない時が来る。

そうあってほしい。しかし、坂本龍一といえども、やはり、何となく、向こうの音楽に合わせているようなところがあるというか、わざわざ、向こうの人が想像する日本、というのを、意図的に意識しながら、音楽を作っていたようなところがあって、三島由紀夫などと似ていて、相当、人工的なところがある。

最近、パフィがアメリカで人気が出たが、あれでわかるように、もしくは、アニメのセーラームーンとかが人気が出たらしいが、アメリカ人も、できれば、ああいう、わかりやすい、どちらかというと、ミーハーな世界が、面白いというか、興味深い、と思うらしいのだ。ポケモンとかもそうだ。

任天堂のゲームが、どんなアメリカ人にも知られているという事実が、何よりも、すべてを語っている。

そういう意味では、日本の音楽は、極めて情けない状態にある。アジアでは通じるかもしれないが、台湾では、崇拝される可能性もありえるが、やはり、それでは、ダメだ。

日本に帰国したころ、モダンチョキチョキズというのがはやっていて、これは、世界的に通じる何かがある、と私は真剣に思っていた。私の癖で、必ず、誰が作曲したかを、チェックしていたのだが、有名になっている、濱田マリではなく、長谷部信子さんという人が作曲しているということがわかった。当時、私は、1992年くらいだったか、長谷部さんの作曲の能力に、それこそ、畏敬の念を抱いていたが、ボンゲンガンバンガラビンゲンの後のアルバムが良くなかったのか、なんだか、自然分解というか、空中分解してしまったらしい。

しかし、やはり、天は才能を見逃さないのだろう。なんとかして、その長谷部さんは、幼児向け番組の、お姉さんが出てきそうな番組の歌とか、バラエティ番組の主題歌とか、そこそこの仕事があるらしい。ただ、私の音楽感からすると、長谷部さんは、つんく、とか、坂本龍一くらいの活躍があってもよさそうだ。(私からすると、長谷部さんの音楽というのは、絵でいうと、浮世絵のようなものだ。そういう、ナチュラルな、日本的感覚で、音楽を作る時代が来ていると、私は感じている。<これが、私が一番言いたいことだ)。

坂本龍一が、いかに、クラシック音楽の基本がわかっているからといっても、ダメであり、三枝義章氏が、いくら、本物のクラシックに近づいたからといっても、それは、浮世絵的な、音楽が出てきたら、意味がないのだ。

音楽の世界の浮世絵は、絶対に出てくるはず。

泳げタイ焼き君
とか
だんご3兄弟
とか
メロンパンの歌

なんていうのが、なんとなく、面白いと、ついつい、好きになってしまうような、葛飾北斎の、富士三十六景などの世界に通じるところがある。

そういう、素直な表現が、正しい音楽なんだと思う。ただ、そこまでいくには、まだ、かなり時間がかかるのかもしれない。何しろ、どんな人を発掘すればいいのか?わからないからだ。


ただ、どうも、個性が本人が気付かないタイプで強いというか、中島みゆき、のような感じで、少々、変わっているので、どうも、芸能界的に、なかなか、歯車がかみ合わないようなところがあるんだろう。

しかし、才能は、間違いなくある。絶対に私のそういう観は、間違ったことはない。なので、もっと、できるはずなので、頑張ってほしいけども、そんなことをいって、頑張るようでは、本物の才能ではないのかもしれない。

しかし、本質的に、優れている人というのは、まるで、生活するかのように、音楽というものを、心の中に持っている。

そういう人と、芸大などで、ピアノがうまいとかいう職人は、全然違う。本質的に違う。

そういう意味では、パフィの曲を作ってる、奥田民生さんは、最初から、あ!この人は、いける。と、ビートルズっぽいところが、出過ぎているけども、あえて、それを隠していないところが良かった。

こういう感覚が、少しだけ、わかっていると思えるのが、浜崎あゆみとか、のエイベックスの社長二人で、もともと、UK(イギリス)ビートとかのCDを売っていた人だから、世界的に通じる、何らかの普遍性という洗礼を受けているから、かなりのレベルに、しあがっている。

しかし、ジャニーズ事務所の、じゃにーさんという人は、もともと、日系人で、戦時中に、日系人の収容所で、日系人のために、色々と、歌や踊りなどをやっていた、というのが、原点であるから、でもって、GHQと一緒に日本に来た、基本がそういう時代の日系アメリカ人だから、なんというか、当時のアメリカ的な、お気楽モードというか、それと同時に、愛情深いところがあって(やはり、収容所はつらかったんだろう。。)、なんとなく、生き残ってしまっていて、それが、残念なことに、気持ちはわかるのだが、それが、日本の音楽界にとって、なにかしらの弊害になっていると思える。

が、しかし、キムタクを見出したころから、少なくともルックスという意味では、なにかしらの普遍性のような感覚が身についてきたというか、というか、もともと、日本の芸能界は、見た目という意味では、それほど、おかしくはないのだが、音楽は、まるで、オマケ、というか、ふろく、扱いであり、そこが、音楽好きな人をなめているとしか思えない。

そういう、本質的なところで、手抜きがあると、すぐに、お客さんは気づいてしまう。しかし、そういう意味でも、かなり、よくなったと思え、最近では、逆に輸出するようなケースも増えているが、まだまだ、もっといけるはずだ。

見た目なんてものは、200年もたてば、意味がなくなるんだから、はやいうちに、音楽性の方に方向転換しないと、もし、中国が、そういうことに、本質的に目覚めて、音楽の世界で、映画の世界のブルースリーのような、本質的なところを、独創的にやられてしまうと、もう、完全に、追い抜かれる可能性がある。

これは、どういう意味で言っているかというと、日本の映画は、植木均の日本一シリーズの60年代までは、アジアでは、少なくとも最高だったはずだった。しかし、ブルースリーが、アジア的な意味で、芸術作品としての映画を出してくると、黒澤映画でも、かなり危うくなるどころか、それ以降のアメリカでは、日本映画が注目されることは、かなり減ってしまって、残ったのは忍者モノくらいしかなかった。その後遺症が、今でも、変な忍者っぽい日本人として、出てきてしまっているのである。

なので、そういう本質的なところで、いってみれば、アジア的な国際競争力がないと、ダメなのだ。

なので、今のうちに、本物を発掘する方向へ、見た目を重視する方向から、大転換しないといけない。こっちのほうが、もしかしたら、郵政民営化などよりも重要である可能性は、、さすがにないか。。

でも、それくらい重要なのだ、ということを、どこかで、誰かが言わなくてはいけないと思って、書いてみた。
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