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こういう↑凄い演奏家というのは、やはり、どの国にもいるもので、ただ、ただ、すごいなあ、と感心するほかないが、 こういう人が、素晴らしい演奏家であると同時に、素晴らしい作曲家なのか?



というのが、いまいちよくわからないというのがある。 クラシック音楽を真面目にやったことがある人にとっては、ほとんどの音楽は俗物でしかなかったりする。 



これは、結構、ありがちな差別意識で、クラシック音楽の難しさというか、音程の複雑さとか、ハーモニーの難しさなどを知ってしまうと、やはり、人気がある音楽は俗物に見えるというのがある。 



しかし、それでも、ポピュラー音楽に惹かれるというか、フォークソングというか、民謡?に惹かれるというのは、何か意味があるのだろうか?



 むかし、日本でアイドルというのは、そういった意味では、演奏する才能がある人がクラシックで、誰でもなれるのがアイドルというような意味があった時代があるが、これは、ある種、クラシック系のモノの見方なのかもしれない。 



音楽的な嗜好というのは、恐らく3歳くらいまでで決まってしまって、それまでに聴いた音楽が、本人にとっての、普通の音楽、となるのかもしれない。



 ということは、本人以外には、音楽が全く異なって聴こえている可能性があって、当然、嗜好の違いが出てくるわけだが、 やはり、海の音、川の音、鳥の声、など、何か共通した音の認識というのはあると思える。最近であれば、車やオートバイが奏でる音とか、電子機器や、家庭内器具などが奏でる音というのがあって、そういう世界の音と、音楽を何かしらの形で関係づけるような試みが、60年代くらいから、最近までの色々な試みだったのかもしれない。



 しかし、不思議なのは、なんでルネッサンス時代に突然、上に出てくるような、途方もなく複雑な音楽が突然、西洋で生まれたのかだが、これは、かなり、いや、とてつもなく不思議で、神秘的でさえある。 それまでは、グレゴリオ聖歌?のような単調なものしかなかったはずなのに、いったいどこから、ビバルディのような、もしくはバッハのような、まるで形態が異なる音楽が出てきたのか?相当、謎に満ちている。 



最近、あ!それかもしれない、と思ったのは、ルネッサンスが、西洋人が、カフェイン(コーヒー、アラブから入ってきた)を摂取するようになってから起こったという説で、もし、それまでの西洋人が、カフェインを摂取したことがなかったとすると、ありえる話だ。



 何しろ、それまでの西洋人は、衛生的に飲めるものではなかった西洋の汚染された水(ペストやコレラをよく発生させていた、汚水が垂れ流されていたりした)を飲む代わりに、アルコール類を、水の代わりに飲んでいたので、昼間であっても、酔っ払っている人が多かった、というのを、テレビで見た(ヒストリーチャネルだと思った)。



 だとすると、カフェインの効果は絶大だったことは間違いなく、たしか、進化するコーヒーとかいう番組だったと思ったが、かなりの影響があったと思える。 アラブでコーヒーが発見?されたのは11世紀ころだそうであり、コーヒー豆を食べているヤギが飛びはねまくっているのを見て、驚いたヤギ使いが、豆を食べてハイ?になったというのが、本当の歴史らしい。ホントにそうらしい。 



それが11世紀で、アラブ流の、コーヒーハウスなるものが、西洋に生まれるのが、ルネッサンス期らしいので、それが、イタリアあたりからすぐとなりにまで攻め込んでいたオスマントルコ(当時のギリシア周辺は、オスマントルコの領土、イタリアのすぐ隣の旧ユーゴスラビアもそうだった)から、トルコ流のコーヒーハウスが入ってきて、突然、脳に作用して、ルネッサンスとなったとしてもおかしくない。 



そもそも、中国人が、カフェインを全般的に飲み始めたのが、いつなのか?よくわからない。マンガ三国志によれば、劉備玄徳が母のために高級な茶を買ったとかいうのが、始めに出てくるけども、あれがほんとだとすると、茶は薬のような存在だったというのだから、あれが3世紀ころとして、そうなると、もっと、6世紀くらいか?唐の時代くらいが、始まりなのだろうか? その辺がわからない。



日本で茶が普通になるのが戦国時代だから、これも、何か日本人を活発にしたに違いない。だとすると、中国で、どのへんだろうか?もしかすると、春秋・戦国時代にすでにあったのか?始皇帝、項羽と劉邦くらいのときにあったのか? 孔子・老子・韓非子時代くらいに出てきたとすると、ありえそうだ。そうだとすると、ルネッサンスとか、アラブのコーヒーとも時代的な要素が重なるような気がする。 



それにしても、演奏家が、よい作曲家か?というのは難しい問題だ。 必ずしも、難しいテクニックが必要な音楽が良い音楽とは言い切れない。



 文章にしてもそうだ。 ある種、誰でもかけそうな文章とか、誰でも作れそうな音楽だったりしたほうが、逆に人気が出るようなこともある。 



そういう意味で、エルビスプレスリーとかビートルズは画期的だったのかもしれない。 クラシック音楽的な耳を持ってる人からすると、ビートルズ以降のポピュラー音楽はすべて同じに聴こえるらしい。せめて、坂本龍一くらいが、やっと、耐えられるレベルであるとか、そういう人もいる。 



結局のところ、どれくらい、アンサンブル(音の組み合わせ)を複雑にするか?という問題と、テクニックをどれだけ難しい音楽にするか?という意味では、80年代のヘビーメタル音楽は、テクニックの難しさという意味では、70年代のプログレッシブ音楽(進んだ音楽という意味)に似た、ビートルズ的な音楽の延長線で、どれだけ、テクニックという意味で、音楽的に飛躍できるか?という意味では、70年代の、ジェネシスとか、イエスなどが最高峰であり、80年代のヘビーメタルはよくわからないが、そういう、80年代的なギターの難しさという意味では、日本だったら、B’zとかが、そういう意味では最高峰だろう。 



そういう、音楽の歴史みたいのを語る人が最近減ってしまった。 ある種、コンピュータでプログラムすれば、テクニックがカバーできてしまったり、というような新しい局面に、どうやって向かい合えばいいのか?わからなくなってしまったんだろう。 



そこで、その辺の、つなぎ役を務めることになってしまった、坂本龍一氏などが、逆説的に注目され続けているというか、参照される論文のような形で、語り継がれているということになるのか? そういう意味では、そういう時代の、ビートルズ的なものとして、マドンナとかペットショップボーイズがあって、日本だったら、松田聖子なんかが、そういう役目を果たしたんだろうか? 



もちろん、浜崎あゆみ、などが、そういう意味ではコンピュータの時代の松田聖子を演じたということなんだろう。西洋だと、アクア?とかいうのが、そうなのかな。



 でもって、ラップもしくはヒップホップ音楽という時代が今、アメリカでは、恐らく、全盛期を終えて、他の国、特に日本で最盛期を迎えているような感じなんだろう。 



でもって、最初の疑問である良い演奏家が、よい作曲家であるか?というと、結局、そうなんだろう。でも、コンピュータとかで、色々できるから、これからは、少し変わると思えて、それほど意外と変わらなかったというのが現実なのか? どうも、そのようだ。



しかし、最近、日本では第二次DTMブームらしい。初音ミクとかいうのが、その火つけ役らしい。 今度はネットで、そういうのをやる時代がきそうだ。どんな風になるか楽しみだ。 



才能ある演奏家は、結局、クラシックにいくか、日本的アイドルのバック演奏家になるか、バンドをやるか?というようなことなんだろうなあ。 その場合に、作曲と、演奏を、どうやって優先順位を決めるのかが、難しくなっている。その辺で、かなりのジレンマがありそうなんだが、見えてこない。なんでだろうか?
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