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前回のブログ記事で、弁理士試験(合格率2-5%くらいだったか、日本で最も難しい)について、最低でも、390条などを完全に暗記していないといけない、などと書いたが、あの、試験の恐ろしさは、忘れることができない。

そこで、何気なく、前から気になっていた、中国の隋の時代(7世紀)に誕生した、国家試験制度である、「科挙」の歴史と、12-13世紀のフランスとイギリスで成立した、王と貴族と商人の間の契約書(法律)について、どちらが先だったのか、どちらが優れていたのか?などを、現代的視点(簡単にいえば、西洋的偏見に基づかない視点)で考えてみたくなった。

科挙という、試験さえ受かれば、王様の直属のアドバイザーにまで成りあがれるという制度は極めて、画期的であり、「偉大である」とされ私には思える。ギリシアローマにも、議会制なるものがあったらしいが、選挙といっても、貴族制だったと認識している。

この点、科挙は、誰でも、何回でも受験することができ、なんと、ある人は、30年も受験し続けて、ようやく合格した、ということもあったそうだ。

一回合格すると、たちまち、支援者がつき、豪邸に住み、使用人までつく、というような、元祖、立身出世の平等が、もたらされた、ということは、どう考えても、人類の歴史上、これほど、画期的な出来事はなかっただろうと思える。

では、この素晴らしい科挙制度と、12-13世紀にフランスやイギリスで成立した、王と貴族と商人の間の協定(マグナカルタなど)と、フランスにおける3部会(貴族、聖職者、市民=商人でしょう)、この東西の2大革命的出来事は、どちらが優れているか、といったら、甲乙つけがたし、であるといえる。

驚いたのだが、ベトナムや、朝鮮や高麗など、中華圏に属した国では、10世紀くらいから、科挙が行われていたそうだ。しかし、中国でもそうだが、幼少のころから、農作業などに従事せざるをえない農民などには、科挙の勉強などをする暇はなく、合格倍率が3000倍などという異常な試験のための、資産的余裕があるのは、商人だけだったに違いない。

イギリスやフランスの12-13世紀の制度革命も、商人との取り決めであり、商人が台頭するという意味で似ている。13-14世紀のルネッサンスのイタリアの最大の特徴は、商人が王様になったことであると、歴史番組で言っていたが、まさに、それは、画期的なことであったに違いない。

しかし、科挙は素晴らしかった。フランス革命を起こすきっかけとなる社会契約論、という人権的書物を書いたルソーは、しきりに、中国の科挙制度の素晴らしさを認めていたというが、きっと、科挙のような方法論があると驚いて、それを、ヨーロッパ、キリスト教風に書き直したのが、社会契約論だったんではないかと疑いたくなる。

日本においては、科挙は奈良時代くらいには、一時的に存在したようだが、すぐなくなってしまったらしい。

となると、これは、かなり、大変だ。明治以来、前近代的と一般的日本的教養人が、考えてきた中国は、1400年くらい前から、日本が、文明開化などといって、喜んで、日本史上初、試験による、国家公務員制度を作ったのが、まさに日本にとっての、近代化および、文明開化だったに違いない。

しかし、元祖は、福沢諭吉などが、軽蔑していた、中国にあったのであり、それに感心して、崇拝までしていたかもしれないルソーによって、西洋に紹介されたわけで、それが、フランス革命につながるのである。

ところが、鉄砲なども、まったく同じパターンがあるのだが、最初に発明したのは中国人だったのだ。それが、アラブを伝わって改良されて、日本に、火縄銃となって、種子島に伝わるのだが、民主主義にしても、鉄砲にしても、全て、中国人が先だったのに、それを、大幅改良した西洋人が、先だと、明治日本は、完全に勘違いしてしまったのである。

この辺は、西洋でも最近、特に中国の台頭と共に見直されており、畏敬の念をもって、中国を再発見する西洋人が増えている。

こう考えると、いかに、日本という島国が、あまりにも、島国的であったかが、わかってしまい、こういうことを言うのは、自虐的すぎるとも思えるが、恥ずかしささえ、感じる。ずっと、勘違いしてきた可能性が出てきたということで、西洋人自身が、それを認めようと、猛烈な勢いで、勉強している。

この変化にまったく気付いてなさそうな、いまだに、明治以来変化してない、西洋崇拝、東洋蔑視の、悪習?が続いているとすれば、これは、かなり、問題がある、長期的に問題があるといえる。

明治の日本は、能力さえあれば、政治家にもなれると、驚くほど喜んだ。そして、アジアで最先端だと信じていたわけだが、現実は、書いたとおりだ。1400年前から、中国では、そういうことをやっていて、

中には、3年に一回行われる試験に受かるために、30年も浪人した人もいたそうで、8歳くらいから、すでに受験勉強を始めていた人も、相当、多かったようだ。

しかし、ここで、疑問に思わなければいけないことが一つある。もし、民主主義が近代を産んだのであれば、なんで、科挙が存在した中国で、西洋やイスラムのような、準近代化および、工業化のようなことが起こらなかったのか?である。

そこで、私が想像しているのが、やはり、西洋の場合、科挙はなかったが、マグナカルタや、その後のイギリス議会において、商人の参加が許されていたことが重大と思える。フランスの三部会でも、代表は、聖職者、貴族、商人であり、イタリアのルネッサンスも商人が主人公であり、商業が、市民権を得ていたということが、最大限に重要な要素だったと思える。

イスラムの発祥は商業地域で起こったようだが、イスラム世界において、商業は、推進されるべきものだった。

これに対して、民主主義と言いきっていいと思える、素晴らしい科挙があった、中国では、試験問題に、出てくる問題は、主に、政治の駆け引きに関する、文章で答える問題(こういう場合、どうするべきか?など、政策などを問われたらしい)、そして、後は、古代の書物に関する基礎知識などが主であり、

工業、商業などの知識は、科挙の試験には、出てこなかった。!

この点が、最大限に重要であることは間違いない。もし、科挙のテストに、火薬の作り方とか、同じく中国で発明された、数々の漢方薬の作り方とか、そういう、工業、商業的な、知識が試験科目として入っていたならば、中国は、西洋を圧倒的にしのいでいた可能性がありえる。

しかし、それでも、商業を、ユダヤ人迫害という問題を抱えながら、受け入れた西洋は、商人でもあり、技術者でもありえた、ユダヤ人を、偏見や迫害を伴いながら、受け入れたことは、そういうことに、入る隙間さえ与えなかった、中国的科挙民主主義では、西洋的資本主義(民主主義ではない)との間に、大きな、見えない差がついてしまったと思える。

実は、その点においては、日本は、逆に、科挙制度が、ひとり歩きしてしまったような、朝鮮王朝(科挙があったが、世襲制の色合いが濃かったらしい)のように、科挙自体が、目的になってしまって、商業や、工業を、おろそかにしてしまった可能性があるのと逆で、日本は、科挙がなかったからこそ、江戸時代風の、商人経済が、西洋的資本主義(実に簡潔にいうと、法律に商人が入っている制度)への、前準備が、知らないうちにできていたと思われ、江戸時代の米相場などの、商習慣(江戸時代の商人経済の競争はかなり激しかったと私は認識している)が、ちょうど、西洋型資本主義、それは、株式市場なども含めたもの、に、マッチした。相性が良かったはずだ。

ところが、民主主義では先輩であった中国や朝鮮では、商業、工業は、科挙に合格したエリートからは、あまり、高級な職業であるとはみなされなかったそうだ。なので、彼ら、合格率3000倍を勝ち抜いてきた、東洋的な超エリートには、民主主義は、違和感がなく、インパクトもなかったと思われる(この点は、日本と全く異なると思える)のにたいし、資本主義には、かなり、違和感を覚えたに違いない。

特に、アヘン戦争という、究極的な、資本主義の、おぞましい姿を見せられて、あげくのはてには、逆切れされて、戦争を仕掛けられて、しかも、負けてしまうという、ありえないほどの屈辱を味わった当時の中国の、科挙を合格したような、知的エリートには、耐えがたいことだっただろう。

正常な正義感をもった、そういうエリートの一人だった、地方役人は、アヘンを売りつけるイギリス人商館を焼き払い、アヘンを、海に放り投げて、イギリス人に、出て行くように求めた。まったくもって、正しいとしか言いようがない、君子がとるべき模範的行動であるといえる。

しかし、まるでヤクザか、犯罪組織であるかのような当時のイギリス人はフランス人と組んで、アヘンを断るなら、戦争をするといって、実際に戦争をし、中国に途方もない屈辱を与えた。当時の軍事力はあまりにも、レベルが違っていたので、驚いた中国は、アヘンを海に捨てた勇気ある東洋的君子である地方役人を、解任してしまった。そうすれば、やくざのような、イギリス人たちが、襲ってこないと考えたんだろう。もはや、この時点で、日本を含むアジアは、中国には、もう、頼れないのだ、と悟ったはずだったのだが、各国で事情が違った。

朝鮮では、親たる中国を痛めつけた蛮族、許しがたし、と、いう勢力と、同じ時期に、今度は北の方から、攻めてきていたロシア帝国と和解すべきかどうか、悩んでいた。科挙に合格したエリートは、教養人、それも、相当なレベルの教養人ではあったのだが、軍事や、技術、商業などには、うとく、政治学にだけは、かなり鍛えられていた。

なので、中国がアロー戦争で負けて、フランスの植民地になった、1000年間、科挙制度があったベトナムも、商業的な発想法や技術や軍事を重んじる文化があった日本を見て、朝鮮は、悩んだ。ロシアにつこうか、日本につこうか?中国に最後までついていくか?など、論争が耐えなかったようだ。この時の、朝鮮半島の苦悩は、相当、大きなものだったんではないか?と思え、誰か、大河ドラマでも書いてほしいくらいだ。

そこで、結局、おそらくだが、廃止しなくてもよかったかもしれない、科挙1000年の歴史は終わってしまった。東洋人としては、嘆くべき出来事であるといえるかもしれない。

しかし、日本が、科挙がなかったからこそ、商業、工業が、盛んになったというのは、かなり、ありえる話であり、科挙に受かるために、現在の日本の、受験勉強で、人生が決まってしまうような、もっと激しい競争があって、その受験科目は、主に政治学や歴史学であり、道徳学であった場合、どうしても、工業や商業の知識が、なおざりにされてしまい、商業や工業が発展しないと思われる。

朝鮮の場合は、秀吉の出兵で、技術者集団まで、奪われてしまったようだから、なおさら、ひどくなった可能性はありえる。

信長も、秀吉も、家康も、実に、商業的には、オープンというか、前向きだった。ただ、当時、日本に豊富にあった、金や銀などを、外国に安く売りすぎたという、国際的な、商業的視野が、足りなかったように見える。その点においては、やはり、長いこと商売をやっていた、中国の商人とポルトガル・オランダ商人などの連合には、知恵が及ばなかったと見える。

ただ、儒教が原理主義になったような、科挙を続けていた朝鮮半島などは、商人などの存在すら、軽蔑というよりか、差別の対象だった可能性もありえ、中国の場合は、自然発生的に商業が古代からあったので、少々、異なるが、また、中国は日本のように鎖国していたように見えて、実際には、ポルトガル人とかイタリア人などと、商売をしていたようだ。

ただ、技術という分野、工業という分野には、その中国でも、興味を持つものが、ほとんどいなかったように見える。火薬や、羅針盤を発明した国なのに、である。もしかすると、かつての、発明王国家として、自信がありすぎて、逆に、不勉強になってしまったのかもしれない。これは、学問的には、西洋の先輩であるアラブ世界が、つい、最近まで、西洋から、工業技術を学ぼうとしないのと似ている。アラブの場合は、石油が出てきたので、今でさえ、日本のように、西洋の工業技術を学んだり、改良したりしようという、気運がないというか、先輩意識が強くて、そういう気が起こらないようだ。

日本的には、わかりにくいかもしれないが、西洋人というのは、たまに、そういう、アラブ人や、中国人が、みせることがある、尊大さに、逆に、恐れいってしまって、憧れをいだいたりする人が結構多い。

彼らは日本人も、似たようなものだと思っているから、実は、日本人にも、かつての、織田信長のような、尊大さを期待する人もいるのだが、西洋人よりも、商業的、工業的になってしまった日本に、逆に、がっかりする人が、結構多かったのではないかと思える。

しかし、ここからは、私の個人的経験になるが、アメリカの大学で出会った、科挙があった国から来た生徒、主に、韓国人、ベトナム人、中国人などは、何かこう、試験などに慣れているというか、やはり、なにか、1000年くらい前から、試験で受かれば出世するという社会を保ってきた、という、東洋的な、何らかの偉大さのようなものが感じられ、そこには、厳しさと、緊張感、必死さなど、大きなエネルギーが渦巻いているように見えた。

あの、奇妙な彼らの使命感のような、あれは、どっから来るんだろうか?と長年、謎だったが、おそらく、科挙の歴史が、彼らをそうさせているんだろう。

しかし、それでも、彼らは、商業、工業の分野では、それほど出世することは、あまりないようにも見える。また、独自の技術を開発する気運にも欠けているように見える。

台湾人だけは別で、彼らは、技術的、商業的な才能を高く評価し、アメリカで、会社を起こして、創業社長になっているような人も多い。日本のプロ野球の伝説である、王選手も、台湾出身だったが、ああいう、何か、生まれつきのリーダーのような、優れた人が多いように見え、そこには、技術的な探究心のようなものが見られ、これは、台湾人には強く見られる傾向で、中国本土人には、あまり見られない。

台湾人は、そういう精神を、台湾人は、無理なことに挑戦するのが好きだとか、日本びいきの李登輝元台湾総統などは、日本精神と呼び、いわゆる、最近のテレビに出てくるような、モノ作り魂というか、何らかの探究する情熱のようなものを持っている人が結構多く、台湾人は、同じような歴史をたどった韓国人よりも、技術的な独創性が優れているように見える。

野球の世界でいえば、韓国出身だと思った、張本選手は、4000本安打の記録だったと思ったが、王選手は、ホームラン王だった。そういう違いが、何か、台湾と、韓国の違いを表しているような気がしないでもない。

ちなみに、リトルリーグでは、台湾は、アメリカで行われる大会で、20-30年くらい、連続で1位だったそうだ。しかし、あまりにも強いので、色々と問題が起きて、参加するのをやめてしまったらしい。

日本のパソコンや、任天堂のゲームから、iPodまで、ほとんど、作っているのは、台湾企業である。そういう台湾企業が、中国や、ベトナムや、ロシアなどに工場を作っている。こういう、台湾人精神というのは、どういうところから出てくるのか、よくわからない。ヤフーを創ったジェリーヤングとか、YouTubeを創った中国系アメリカ人も、確か、台湾系だったような気がする。彼らは、どういうわけか、アメリカにおいても、そういう、創業精神というか、リーダー的な地位を、まるで、日本においての王選手のように、実に、真正面なやり方で、地位を確立してしまう。

アメリカの大学の総長で、台湾人というのが結構いた。80年代のことだ。また、カナダの西の州の一番偉い役人も、台湾人だったことがある。これは、かなり、特殊なことであり、日本人や韓国人、もしくは、中国本土人でも、彼らのようなことは、できない、なぜか、できない。まるで、誰も王選手にはなれないように。

よく、共産主義の中国は、農民が支持基盤だったといわれるが、もしかすると、かつての、科挙の合格者の子孫たちが、ちょうど、蒋介石の国民党に多かったのかもしれない。そうでも考えないと、台湾は理解するのが難しい。科挙に1000年前から受かり続けていたとか、そういう家系もしくは、血脈にある人は、きっと、今の世の中でも、かなり頭が良いんではないかと思える。

そういう人が、アジアを襲った、独裁主義や、極端な共産主義などから解放され、アメリカのアジア人だらけの、IT革命を生んだ、シリコンバレーや、場合によっては、日本の研究所、アメリカの大学などで活躍しているとすれば、面白きことかな、と、俳句、短歌などにおいては、世界に冠たるものがあると私が思う、俳句のように、短く、エッセンスをまとめるのが、技術にも生かされるような、この国の、残念ながら、科挙のような、試験制度的、平等主義という意味では、1000年も、遅れているということを、認めざるを得ないのだが、工業については、おそらく、古墳時代から、なにかしら、優れていたものを持っていたような気がする日本は、リーダーにはなれなくても、きっと、何か役目がある。たとえば、環境とか、そういうことだ。

ある言語学者が面白いことを言った。日本語は、音読みと、訓読みがある。これは、かなり、特殊なことだ。と。

それを聞いて思ったのが、今の日本を代表する、ハイブリットカー技術だったが、なにかこう、日本には、こだわりというのが、比較的少なく、明治のころだったら、和魂洋才であるとか、戦時中は、アジア、欧州、アメリカ、ソ連などの、ちょうど、中間くらいのとこに、意図的にいたような気がしないでもなく、

冷戦時代は、資本主義のふりをしながら、共産主義に近い国だったなど、最近でいえば、中国にも、アメリカにもロシアにもビジネスを広げるとか、そういう、二面性も否定しないというか、同時並行的に、色々とやることにたいして、違和感がない、というような、まさしく、音読み、訓読み、ハイブリット文化のようなものがある。

最近、風車と、太陽電池が両方ついている伝統を見かけることが多くなった。ああいうところに、日本的柔軟さを感じる。

DNA時代の、生物学では、体内における、良い作用と悪い作用が、共生している、というような分野で、日本の研究者の発表で優れているものが多いように見えてしまうのは、えこひいきだろうか?

体の中というのは、色々と二面性がある、複雑に絡み合う世界であり、なんとなく、それが、日本人的研究者に向いているような気がしているんだが、どうなんだろうか?





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