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前回のブログ記事で、最後のほうで、無意識的に、我ながら、不思議なことを書いている。

なぜか、その内容が、何らかの奥深い真理とつながっているような気がして、それを考えたのだが、とりあえず、今まとまったところまでを書いてみることにする。

前回のブログで、人間は、決定しないといけない、と、分析よりも決定が大事なんだ、と、いうことを、いろんな例を使って、説明しようとしてみた。

そして、最後に、なんで、そうかというと、一昔前の人が言っていたように、世の中は不確実性に満ちているからだ。と、私は書いている。

書き終わってから、何か重大なことを言ったような気がして、もう一度、書いている。

確かに、世の中は不確実性に満ちている。簡単にいえば、次にどうなるか?わからない。

だから、俗世界的にいうと、人々は、占いや、未来予測などに頼り、金まで払う。

前から不思議に思っているのは、株式とか競馬の情報屋は、はずれても、金が入ってくるということだ。

これは、なんでか?と考えたら、そうか、不確実性が、減るからだ、減らしたいからだ、と気付いた。

つまり、人間は、おそらく、ある程度以上の不確実性は受け入れられない上限のようなものが、最初から脳の記憶部分かどこかにあって、それを超えると、できるだけ、不確実性をなくそうと考えるようになり、

そのための手段として、予測のためのあらゆる学問(占い、科学、全て含む)が存在し、昔から、人間は、場合によっては、人を生贄にしてまで、未来の行方を占った。

通常、生贄とか、供え物は、絶対に安売りなどは、どんな宗教でもないと思われ、なるべく高価でないといけない、でないと、不確実性の神様が、ちゃんと、占ってくれない可能性が「ありえる」からだ。

最初の疑問に戻ると、人は、不確実性を減らすために、金を払う場合がある。というのは、そもそも、人間は、どういう場合に、金を払うか?となると、

決定 に対して払っている、と、前回のブログで私は書いている。しかし、なぜ?そうなるかは、わからなかったのか、書いていない。今、わかったので、それを書く。

決定というのは、苦悩のみならず、責任をも伴う、責任というのは、極端なケースでは、命までかかってくる。よって、決定というのは、リスクを受け入れることを意味する。それも、他人に変わって、代理人として、リスクを受け止めるわけだ。

それに対して、リスクを取る勇気がない人、もしくは、リスクをとるような技術がないとか、そういう人が、お金を払うことによって、代表者たる人に金を払う。これが、お金のやり取りの最も原始的な形かもしれない。

社長が、ある決断をする、1か2か迷うとする。最初から結果がわかってるとして、1だったら大儲け、2だったら、大赤字だとする。

社長業の給料が高いのは、そういう、自らが背負うリスクが高いので、その対価をもらっているということになる。

労働の対価、というよりか、リスクの対価、を給料としてもらっているというわけだ。

食事とか、料理とか、食用動物を育てたりする人に金を払うのも、それに対する労働の対価を払ってるということになるけども、それだけじゃないな。リスク、たとえば、漁船だったら、自分だったら、溺れて死んでしまうかもしれないリスクを、漁師さんたちは、背負っているから、それに対して、リスクの対価を支払う。

これが、おそらく正しい報酬のあり方だろう。

そして、こういった行為は、必ず、将来的な不確実性が減る方向へ向かう、という形態になっていないと、通常、金は支払われない。

たとえば、山に火をつけて、山火事を起こすような人に、誰も金を払うことはない。損害賠償ならある。そういう、不確実性を増やすような行為には、金は支払われることはない。

これは、不思議だ。どういうわけか、人間は、不確実性を減らすことに、金を支払うように、なんというか、作られている、としか言いようがない。

その手段として、

決定
断定
予言
占い

などがあり、それが、正しいかどうか、わからなくても、人間は、心配になるから、お金を支払うことをためらわないのである。これは、論理的に、どこかが、おかしいのだが、人間は、そういう動物だ。

これは、人間の特質である、農業とか牧畜、狩猟などを行う場合に、何かしらの理由で、身についてしまった、概念で、リスクを背負う人に、何らかのリスクの対価を支払うという決まりが、人類の歴史のどこかで、生まれ、それが、その時代における、何らかの富と、交換可能となり、その富が、その時代もしくは、人間本来の、快楽と、交換可能なシステムが、だんだんと、文明という形で、特に商業という形で発達した。

そうか、結局、未来を知りたいというおは、自らの生存にかかわってくるから、保身のために、保険料を払っているというだけなのかもしれない。なぜならば、未来が少しでもわかってる人の方が、より、生存する可能性が、高いか、もしくは、少なくとも、そう感じられることが多いからだ。

つまり、自らを未来の不確実な恐怖から守るために、代理人たる、情報屋、予言屋、占い師など、

決定や、断定 を 仕事としている人たち

に金を払うわけだ。

私が社会人になって驚いたことは、学生のころには、きっと、絶対的基準で、行われていると思っていたことが、実は、個人の勘とか、いちかばちか?の判断で行われることが、結構多いということと、新しい事業を立ち上げる場合は特に、決定、断定、を繰り返し、結論が出るまで続ける、というのが、研究開発だと理解した。

そういう新しい商品を、お客さんは見て、その、積み上げられてきた、決定、判断、それによって生じるリスク、そして、何よりも、その商品を得ることによって、おそらく、減るだろうと思われる、不確実性に対して、お礼として、金を払うわけだ。

私の作った分析法だと、今までわからなかったことが、わかるようになったので、お客さんは、普通の分析が10万円だったのに、なんと、私の方法には40万円も支払うことに、何のためらいも示さなかった。まさか、自分が、創り上げたものが、そんなに高い評価を受けるとは、夢にも思わなかったので、その日は、上司と、喜び勇んで、凱旋するような気分で、会社に帰った。

あの頃が、一番最高だった。本当に幸せだった。

このようなことをまとめると、もし、金を支払ってもらいたいならば、おそらく、人間は、

断定か、決定、をしないといけない、ということになる。
それに加え、
その断定、決定によって、支払い者の、不確実性が、減るか、少なくとも減るように感じるとならねばいけない。

決定優位論なんていう、素人学者めいたタイトルにしてしまったが、はたして、本物の学者で、何で、人間が、いわゆる労働の対価を支払うかを考え抜いた人はいたのだろうか?

さて、ちょっと無理をして、この考え方を、株式投資やギャンブルに当てはめてみる。そうすると、急に現実味を帯びてくるだろう。理論というのは、現実にそくしてないといけない。

株式投資では、情報中毒になる場合が多い、単純に明日の相場が心配になるからだ。かかっている金額=リスクの大きさ、が大きい場合、ある程度信頼できる断定に対して、その断定によって生じるリスクを背負っている情報屋に、そのリスクの対価を払っていることになる。

予言をするというリスクを、代理してもらうわけだ。代理労働に、支払うわけだ。

リスクの代理、というわけだ。生贄の儀式も、究極的には、リスクの代理となる。

用心棒や、ガードマンには、暴漢などに襲われるリスクを代理してもらうわけだ。

では、ギャンブルはどうか?株の場合は、情報屋についてしか書かなかったが、

ギャンブルの場合は、何か、順番というか、論理が逆転しているように感じられる。

リスクを代理してもらうのではなく、自分でリスクを負うのである。

なんでそんなことをするのかというと、その行為によって、

儲かった場合=より多くのリスクを他人に代理してもらうことができるようになる。
損した場合=リスクを他人に代理してもらう機会が減る。

しかし、そうだとすると、何でそんな単純なことに夢中になるのだろうか?

もしかすると、こういうことかもしれない。人間は、本質的に、決定したり、断定したりするのが好きなのだ。

とすると、ギャンブルをやっている間は、いつ、引くか、いつ、利食いするか、いつ、逃げるか?など、必ず、決定や、断定を求められ、それが、快楽と感じるのかもしれない。

スリルというやつか。だとすると、スリルとは、仮に、リスクを代理してもらう機会が減るという危険があったとしても、決定や、断定のもたらす、いや、違うな。わかった。

あれは、決定、断定の訓練なのだ。そうか、やっとわかった。ギャンブルをやると、自然と、決定、断定の訓練になる。これは、狩猟本能の世界(どこに獲物がいるか?など、色々と推測したりする本能的行為)の、何らかのなごりがあって、

ギャンブルが、人を感情的にするのは、狩猟時代の狩猟をするときの、精神的高まりを、再現しているのではないか?

狩猟の話は、わからないが、少なくとも、ギャンブル、特に株式投資は、決定、断定という意味では、途方もない訓練を要求される。

えてして、そういう訓練は、人生に役立つ???のか?かえって害の場合もありそうだ。

では、なぜ?

わからなくなってきた。眠いし。

ただ2つわかった。

1)株式というのは、その発祥自体が、リスクを分かち合うという発想から生まれた
2)リスクを伴っている文章は読む気になるが、リスクが伴ってない文章は、読んでもつまらないし、興奮も何もない。

など。
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