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最近、ケーブルテレビのヒストリーチャンネルというので、古代の技術というシリーズがあって、本来、そういう意味では、奇妙に愛国的な私は、見ていると、なんとなく辛いのだが、勉強ということで、見ているのだが、



結局のところ、江戸時代の「からくり(人形)」、に代表されるような、日本的モノ作りの原点は、イスラム、中国、そしてエジプト・ギリシアに起源があるらしいとわかってきた。



できれば、日本が起源だといいたいけども、実際にそういう痕跡がないのだから、仕方がない。ただ、これから勝てばいい。



しかし、やはり、驚かざるを得ないのは、紀元前2-3世紀に存在した、アレキサンドリアのヘロンという発明家だ。この発明家の書いた図面などは、長年、謎とされてきたが、そのほとんどが、蒸気を利用しており、水が蒸気になって、その圧力で、フタが開き、そのフタの上に回転する歯車があって、それが、ヒモとつながっていて、それが、ドアとつながっており、火をつけると、自動的にドアが開く、などという「自動機械」を、数多く発明しており、主にギリシアの神殿などで、宗教的な儀式のアトラクションとして、作られたのではないか?と推測されているそうだ。



しかし、その後、ギリシアがなくなり、ローマが台頭するころから、どうも、そういう技術は表舞台から姿を消し、ローマというのは、どちらかというと、そういう小型装置よりも、巨大で幾何学的な土木建築が得意だったようで、そういう小細工的に見えるものは、ローマ的には、あまり人気がなかったようだ。しかし、ローマは神殿建築などの分野では、エジプト>ギリシアと、受け継がれてきた、建築技術を、その最大の成果として、コロセウムや、ローマ水道のような、巨大建築物として、歴史的偉業を成し遂げたことを否定できる人はいないだろう。



しかし、私が面白いと思ったのは、アレキサンドリアのヘロンが発明した80ほどある、自動機械の伝統が蘇るのは、9世紀から10世紀のイスラム世界においてであり、ここで、アルジャザリという巨星が現れ、当時知られていた、からくり機構(自動機械)の百科事典を書き残しており、ここで、注目すべきは、おそらく、



現在の自動車のエンジン機構と、恐ろしいほど似ている、複数のシリンダーが時間差攻撃のように、上下運動する機構



が発明されていることである。これは、ひとつの歯車の真ん中に一本の棒がついており、それが回転すると、棒に、複数の突起が互い違いに重ならないように、一定間隔でついており、その突起が回転中に上下するシリンダーのようなものについている板を押し上げ、そのシリンダーが上がる時に、水を汲み、重力で下がるときに、水路に流すという仕組みであり、それが、複数の突起が時間差攻撃のように、次々と行うことによって、全自動の水汲み機械となっている。



ここで、注目すべき点は、おそらく、中国で発明された、ふいご機構が、その設計に組み込まれていることだ。ふいご機構とは、例の、しょうゆポンプにも使われているが、一方向だけに、液体が吸い上げられるようになっている機構だ。上記の時間差攻撃的、連続水汲み上げシリンダーの内部には、ふいご機構が入っており、下から水が上がってくると、しょうゆポンプのように、一定量入ってくると、下の弁が閉まり、逆に横の弁が開き、水が流れ出るようになっている。(ちなみに、しょうゆポンプを発明したのは、ドクター中松だそうだ)



この、ふいご機構は、中国で、製鉄を効率的に行うために開発されたとされ、上記のように液体ではなく、より多くの空気を、1000度の高熱で、鉄鉱石を溶かすために、あっという間に酸素が消費されてしまうので、常に新しい酸素を吹き込むために発明された機構で、



おそらく、ここが重要な点なんだが、それが、ギリシアにはなく、アラブで、歯車機構と、出会った、というところが、当時の発明者バヌムーラ兄弟というのが、偉大であった理由といえるかもしれない。こういう発明は、100以上存在し、後に、ルネッサンス時代のヨーロッパに間違いなく、スペイン経由で伝わったはずの、アルジャザリの本に、絵とともに記されている。ちなみに、この「本」が可能になったのは、イスラムが勃興し、唐との国境争いで、中国(唐)が負け、中国人捕虜の中に、紙の製法を知っていたものが混じっていたために、イスラム世界では、製紙業が起こり、スペインがヨーロッパで最初の製紙業を行ったとされているようだ。



アラブ時代、アレキサンドリア時代、スペイン時代に共通するのは、いずれの時代においても、そういう、知識伝承が行われるとき、巨大な大学が設立されていることであり、アレキサンドリアでは、何万冊ともされる蔵書があったとされる、アレキサンドリアの大図書館があったとされ、あらゆる民族出身の天才たちが集まっていたそうだ。ちなみに、この時代の話で実に興味深いのは、当時のシリアで、壺の中にナパーム油?が入っている、明らかに手榴弾としか思えないような物体が発見されていることだ。何世紀のものかは定かではないが、三国志の諸葛孔明は、すでに火薬を使って、地雷を作っていたとされるのが3世紀であるので、どちらが先だったのかは、わからない。



イスラム世界においては9-10世紀に、「知恵の館」と呼ばれる、天才が集まる学問の神殿のようなものがあって、そこで、アルジャザリは、当時の最先端の、からくり機構(自動機械)を、一冊の本にまとめあげるという偉業を残した。



イスラム世界の第二の都があったスペインでは、これまた巨大図書館があり、ヨーロッパ初の図書館であったそうで、そこで、イスラム圏に伝わっていた、最先端技術が、キリスト教圏に伝えられるために、おそらく、ラテン語やフランス語などに翻訳されたんだと思う。なんでかというと、



スペインにおけるイスラム王朝を不動のものにしたアブド・アッラフマーンは、フランス建国の父である、シャルルマーニーと、異教徒でありながら、同盟関係を結び、現在のスペインとフランスの国境あたりに住んでいた、反逆的な異民族をともに倒すなどということをやっていたからだ。両者は、同盟関係にあった。ローマ帝国以外で、初めてキリスト教徒の王となった、初代フランス王シャルルマーニーは、ドイツなどにいた、異民族をキリスト教化するために、大虐殺などを行っており、当時の文明国であった、イスラム系スペインに対する敬意のしはらいかたとえらい違いがありそうだ。



よって、製紙業も含めて、ふいご機構や、後のルネッサンス型自動機械から、歯車機構を使った時計まで、全てイスラムから、譲りうけたのが、フランスだったために、フランスは、キリスト教圏における最先端を行くことができたんだろう。



日本においての、からくり機構(自動機械)の研究は、江戸時代に花開くが、江戸時代の最高傑作とされている、和時計(当時の日本では、昼間の長さによって、一時間(いっとき)の長さが季節によって、違っていたが、その時計は、冬と夏では、ちゃんと、違う時間の進み方を表現できた。)があるが、8-9世紀のアルジャザリの本にも、同じような、アラブ時計が、登場するらしい。



しかしながら、では、そういう歯車機構は、アラブもしくは、ギリシアの発明かというと、実は、中国の春秋時代(紀元前5-4くらいか?)に、すでに、いやもっと前に、、殷周時代の書物に、指南車と呼ばれる、まだ、磁石型方位機が、発明される前に、歯車機構によって、常に、方向機が、南を指す、二輪車が存在していたことが、わかっているらしい。指南車が、可能になるためには、どうしても歯車機構がないと不可能に思える。



なので、歯車機構の発明者は、どっちが先だったのかは不明だ。



いずれにせよ、中国にも独自の機械じかけの装置の歴史があり、江戸時代の からくり職人たちは、オランダ語の、からくり仕掛けの本や、中国の同様な本から学んだとされていて、江戸時代には土佐藩の細川  によって、「精機巧図彙(からくりずい)」というような、挿絵つきの指南書が、多くの人に読まれたようだ。中には、そういう本から影響を受けて、自転車のようなものを作った町人もいたらしい。木製で、回転する角を取った歯車が2つ足のペダルと連動するように歯車機構を使ったんだろうと推測される。



中国のカラクリ関係の書物に有名な一冊があったと思って、調べていたところ、面白いサイトを見つけた、それによると、「太平広記」という宋代(10世紀ころ)の書物に、魚を川辺で、次々に木片で取り上げる機械のことが詩的に書かれているらしい。これは、アルジャザリの本に出てくる、時間差攻撃的な複数のピストン機構に実に似ている。いや、時期的に一致することから、同じものだったんではないだろうか?ふいご機構の時代から、中国は、弁(しょうゆポンプ機構)を使うのがうまかったことから、アレキサンドリアのヘロンは、現在の洋式トイレに水を流すための、鎖付きの弁(普段は、水圧で、出口をふさいでいるが、持ち上げられると、水が重力で、下に流れる)が得意技だったようだが、ふいご機構が特徴的なのは、それが、方向が異なる2重弁のようになっているところで、一方の弁が開くと、他方が閉じるような、仕掛けになっている。



また、「太平広記」には、アレキサンドリアのヘロンにも、アルジャザリの技術書にも登場する、コインや金銀などを入れたり、水がなくなったり、要するに、ある機構に対する重さの負荷が変化すると、自動的に、空気が、圧力によって、押し出され、狭い隙間から出ることによって、音を発する装置があったそうだ。ギリシアの場合は、コインを入れると、水が出てくる装置だったようだが、中国の場合は、酒とか、水を一定量、飲みほしてしまうと、声が出るというような、逆の機構だったようだが、順番が逆なだけで、仕組みはきっと同じだろう。



アルジャザリの場合は、そういう、からくり機構を、いくつもつなげて、機械式音楽隊を作ったのが有名であり、現在大発展中のドバイに、その模型があるそうだ。水と水圧機構と、歯車機構だけで動くようだ。



結局のところ、ルネッサンスというのは、こういう技術がスペインを経由して、一番重要な、中国からアラブを伝わって到達した、黒色火薬と、大砲(青銅製、どうも、鉄製のを作ったのはイギリス人だったようだ、これがスペインの無敵艦隊を破る。徳川家康も、大阪夏の人で、これを使い、天守閣が飛んだそうだ。)が、伝わり、



ここからは、私の想像だが、もともと、西洋には、ギリシア式もしくは、バイキング式の、何十人もが、懸命に腕力で漕ぐ、手漕ぎ型ボートか、くりぬいた空間があるようなものしかなかったのだが、



そこに、船底の仕切り機構(船の底の一か所に穴が開いても、複数の仕切りがあるので、そこが、海水で埋め尽くされても、沈まない、竹を半分に割ったような状態と比喩される)を、明の鄭和艦隊が、巨大戦艦を作っていたのだが、この艦隊には、アルジェザリの本にも出てくるらしい、海上を火薬による噴射で飛ぶ魚雷のようなものなども持っていたらしいのだが、



こういった近代式船は、西洋の歴史においては、コロンブスの時代(15世紀)に突然登場するのだが、鄭和艦隊が5度目の遠征で、アラビア半島のメッカまで行っているが、そのさいに、おそらく、その船に驚いた現地人が、ユダヤ商人など、西側各地域で、商売をしていた(インドのカルカッタから、スペインのコルトバなどまで商売をしていた。イスラム国では、ユダヤ人は差別されることはなく、敬典の民として、商売する特権が与えられていたらしい)ので、それが、遠くスペインまで伝わって、だから、スペインは、イスラム国から、ルネッサンス時代にキリスト教国になるが、技術的には、最新式で、西洋ではじめて、イスラム世界以外で、船底に仕切りがついた、遠方航海可能な船のテクノロジーを得たと思える。



鄭和艦隊が、アラビア半島に到達するのが、15世紀はじめであり、コロンブスが艦隊を引き連れてスペインを出発するのが15世紀後半であり、ポルトガル人が、エンリケ航海王とともに初のアフリカ探検を、おそらく、1415年のアラブ攻略の際に得た色々な技術とともに、盗みだし、それを完成させるのが、1430年代であるが、鄭和の最初の航海が1410年代だから、その間に、アラビア半島から、占領されたポルトガル領もしくは、スペイン領などから、技術が流出した可能性が高い。



よって、たまに、中国人が、羅針盤、火薬、印刷機などの特許料を払えなどというのは、あながち、間違ってない主張である可能性がある。だが、現代社会では、通念的には、間違っているといえる。



よく、日本の教科書などでも、グーテンベルグが(金属製)印刷機を発明して、一気に書物が広がったなどと書いてあるが、その前に、はるか前から、中国や日本にも、木製印刷機ならば、当り前のように存在し、本が、印刷され、大量生産されるのは、ごく当り前のことだった。しかし、それは、紙が発明されてからであり、そういう意味では、マルコポーロが、中国で、本が、信じられないほど安く売られていると驚いたのは当然だろう。



では、ここまで来てしまうと、ルネッサンス時代の発明なんて、何かあったのか?と逆に聞きたくなってくる。蒸気機関車は、確かにイギリスが発明したが、蒸気で動く機構は、2000年前のアレキサンドリアのヘロンが、蒸気で自動に開く扉とか、蒸気で回転する円盤や球などを、あちこちの神殿で使っていたらしいことがわかってきたらしい。



アラブの時代から、電池(液体電池)は存在したが、磁石は中国に存在した。だから、電磁気学も、イギリスやドイツ、イタリアで発達したとされるが、どこからがルネッサンスで、どこまでがアラブなのかは、判断が難しい。



しかし、明らかなのは、電気式のスイッチである、真空管を作ったのはカナダ人ド・フォレストだそうだが、アーク放電など、真空中で電気反応が起こる技術はすでにあり、しかしながら、電気に関しては、中国でも、アラブでも、磁石や、液体電池以外には、今のところ記述がないので、電磁気学以降が、西洋の本当のルネッサンスであり、実際に言われているルネッサンスは、かなりの確率で、借り物だらけだったといえる、と、西洋人自身が認めるようになっている。



いまだに、そういった中国人の発明を、ねつ造などと疑っているのは、もしかしたら、日本の一部の人だけかもしれない。ちなみに医学の分野でも、最初に天然痘のワクチン治療法を考えだしたのは、10世紀ころの宋の役人だったことがわかっており、それが、アラブに伝わり、その方法が、オスマントルコでは、日常的に行われており、オスマントルコを訪れたイギリスの貴族夫人が、その方法で、わが子を救い、それが、西洋全体に広まり、それが、改良されて、牛の内臓で、ワクチンを増幅させる方法が開発され、江戸末期に、日本に、蘭学の一種として輸入されるのである。



似たような話として、青銅製の大砲は、10世に(実際にはもっとはやかったはず)公式に黒色火薬が発明されて、宋の時代にすでに、大砲の原型ができており、それが、アラブに伝わり、やはり、アラブ領だったスペインを通じて、もしくは、オスマントルコ経由または、十字軍遠征帰りに、ルネッサンスのポルトガルに伝わり、それが、日本や、清に逆輸入されるのである。しかし、それが、イギリスに伝わり、鉄製の大砲となり、カリブの海賊のように、船にズラーっと並べる方式にしたのは、イギリスが最初だったらしい、なので、スペインの無敵艦隊に勝てたとか、、



 しかし、鄭和艦隊は、その200年くらい前にすでに、艦隊に大砲を積んでいたと思われる記述が多い。なので、青銅製という意味では、やはり中国が先だったに違いない。鉄製だって、朝鮮半島で、秀吉軍を破った李氏朝鮮が誇る、亀甲船というのは、火縄銃の鉛玉を、ことごとく跳ね返したそうだから、鉄製だったんだろう。同じく、当時の最強海賊だった、村上水軍が、鉄砲隊を使っても信長が作ったらしい大砲が積んであったらしい鉄板船には歯が立たなかったそうだから、鉄製船があったんだから、鉄製の大砲をイギリス軍が作り、それを、徳川家康が、オランダ人からもらったり、同じく鉄製の鎧(よろい)が、火縄銃の弾丸を通さなかったらしいが、当時の技術は、それほど、差がなかったが、



おそらく、当時の最強の武器を持っていた秀吉軍が、北から来た明軍に負けてしまうのも、きっと、向こうにも、朝鮮軍の、鉄で覆われた亀甲船のように、火縄銃に対抗できるような武器をすぐに作れたんだろう。でなければ、火縄銃があれば、スペイン人による、アメリカ大陸征服のようなことができた可能性があるが、アメリカのインディアン原住民は、なんと、石器時代の武器しかもってなかったから、どうやっても、勝てる見込みはなかったので、それとこれを一緒にするのは、さすがに無理だし、失礼かもしれない。



しかし、このように、なんというか、技術という意味で、歴史を見る学者があまりにも少ない。技術だけ、もしくは、戦略、戦争の年代だけで語る人とか、当時の人脈とか、駆け引きなどで語る人が多すぎるのに対し、技術の面から語る人が、最近の英米系メディアでは、ものすごい勢いで増えており、一種のブームになっている。



それに対し、日本では、まったく逆方向とも思えるような歴史観さえ、出てきかねない状況だ。ここは、ひとつ、謙虚になって、技術の大先輩として、中国やアラブを勉強し、一回、ルネッサンスやダビンチのことは、忘れてしまう覚悟が必要だ。まさしく、それこそ、日本の知識人のルネッサンスになるに違いない。













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