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常識

これほど、インパクトが少なくて多い言葉も他にないだろう。

少ないけども多いのである。。

色々悩むと、専門書などを買って読んだり、色々新しい発想法とか、ハウツー本、

または

新しい趣味、新しい音楽、芸術、

新しい習い事

などが、悩みを解消してくれることがあって、そういうときは、

何だか、ちょっと、得した気分

になれる。

これは、素晴らしいことだと思う。自殺さえ考えていたような人でさえ、趣味で、生きる意味を見つけられた、というような人もいるんじゃないだろうか?

でも、結局、最後には、常識が戻ってくる。戻らなければいけないところに、最終的には、戻る。

これが、私がようやく少しだけわかってきた人生の法則?だ。

株式市場というのは、実に、人間模様を、中長期的に、もしくは、短期的にでも、かなり、色濃く反映する。

おそらく、人類の歴史の中で、株式市場ほど、まさしく、人間しかできない=人間らしい、世界はないのかもしれない。

たまに、原始生活に戻るようなことを=人間らしい、というような、自然派?がいるけども、

それは、人間が、より、動物だった時代に戻ると言っているのであり、人間らしいのではなく、動物らしくなれ、と言っているにすぎない。

本当に人間らしいことというのは、歴史そのものであり、仮に、歴史がねつ造だったとしても、そういうねつ造は、ありえそうな話だから、存在するのであって、恐らく、それも、人間らしいんだろう。

そもそも、ねつ造などということは、人間にしかできないことだ。

こんな屁理屈は、この辺にするとして、やはり、最後には、常識に戻るのだ。

ここであえて、自然派に忠告をするとすれば、最後には、自然に帰る、、なんていうウソを言ってはいけない。

最後には、常識に帰る

が正解だ。 自然に帰るならば、原始人にならないといけない。狩猟生活だ。

おそらく、自然派の人が、言いたいのは、農耕社会に戻るということじゃないかと思う。

現代人は、忘れがちだが、つい100年かそこら前まで、当時の最先端の先進国でさえ、人口の、ほとんどは、農民だったのだ。

よく、日本人は農耕民族で、なんていう、何の根拠もない話を、何かを正当化するためにする人がいるけども、

気持ちはわからないでもないが、

アメリカでさえ、1800年代は、人口の90%くらいが、農民だったそうですよ。それでも、日本人は、農耕民族で、、自然を愛し、、などと言い続けるつもりですか?アメリカ人は、自然を憎んでいるんでしょうか?

まあ、こんな嫌味ったらしい話はやめておいて、といっても、そういう、自然派の、ウソは正しく修正されなければいけないと思うが、、

農耕と、敵対するのは、500年くらい前までは、遊牧だったはずで、中国の歴史がそうだが、

農耕民族 VS 遊牧民族

という構図こそが歴史だった。

しかし、商業、工業が発達すると、それが、過去200年くらいだけだが、かなり、変化した。

それでも、1800年代までは、欧米でさえ、人口の7-8割くらいが、農民だったそうだが、いわゆる、自然派の人が言いたいのは、工業、商業ばかりに偏らないで、農業をやっていた頃を思い出しましょう、ということだろう。

それは、大いに結構なことだ。ただ、表現を間違えると、はっきりいって、間違っている場合があるので、修正が効く間に、指摘しておかなければ、などと思って、書いてみた。

結局、人間は、自然には帰らない。

人間は、常識に帰ってくるのだ。

最終的には、常識が勝つわけだ。これが、私が、最初の数年間、一時期を除いて、負け続けた株式市場で、学んだことだ。

特にバブル状態では、いつも、同じこと、

結局、常識を信じればよかったんだ!

と、、、たくさん買った本や、毎日かかさず見ていた経済番組や、色々な警告本とか、全部とは言わないけども、

常識の方が、、はるかに、、頼りになるんだ、とわかる。

が、しかし、ここで、重要なのは、

常識は、個人個人で、かなり違う

ということだ。なので、自分の常識で、自分が助かったからといって、それを、他人に勧めたり、そういう風にならないといけないと指導したりするのは、間違っているどころか、有害だ。

なので、誰もが、最終的に、自分の常識に、帰ってくるのだ。

こういう風な文章が書けている間は、まだ、大丈夫なんじゃないかと思えてきた。

常識をくつがえす●●とか、、何かが出てきたら、要注意だ。

釣りというのは、そういうことを、知らないうちに教えてくれるような気がする。いろいろと工夫しても、やはり、ベテランの言うとおりだった、というようなことだ。

そう考えると、人生もつまらないように思えないこともないが、意外と、常識という、ハンドルを握りながら、人生という道路を、ドライブするのも、思いのほか、難しいのだ。

だから、普通に暮らしていればいい。悟りを得るには、仙人のように山で暮す必要があるのだろうか?

そんな問いが、恐らく、良い問いではないか?などと思いながら、温泉に行きたくなってきた。

温泉とか、お風呂に入ると、なにかこう、リフレッシュしたんだけども、また、元の状態に戻った感じになる。

また、新しいスタートという気になる。

これも、一種の、常識帰り、かもしれない。

掃除、洗濯なども同じで、あれをやってると、その間、自分が、人間らしくなっていることに気づいたりする。

それは、かなり、感覚的なものであって、

ああ、今の自分は、人間らしさ度50%くらいだな、とか、数字で表せるようなものではなさそうだ。

おそらく、釣りをしている人の、人間らしさは、もし、そんなことが計測できるとすると、かなり、人間らしさ度が、高いんではないかと思う。

釣りというのは、まだ、人間が、農耕民族になる前のときの、脳の中にある、思い出を、知らないうちに、教われるような仕組みになっているのだ。

実は、あの、現代的に見える、ゴルフとか、テニスとかも、実は、同じなのだ。人間にとって、最初の狩猟は、石を動物に向かって投げたことなんじゃないか、という学説があるそうだが、

だとすると、野球のピッチャーこそは、人間の本来の姿ということになる。

食べ物に関していうと、最も人間に近い、オラウータンなどは、主食は、果物だそうだが、たまに、肉を食べることもあるそうだ。

しかし、肉というのは、魚の生とは違って、動物の生肉というのは、ゴムのように、ブヨブヨしていて、なかなか、噛みちぎることができなく、

虎や、ジャッカル、ハイエナのような、鋭い歯がないと、噛めないそうだ。

そこで、人間だけが、思いついたことが、調理(火であぶる)という発想であり、よって、料理をしている時の人間の姿こそが、一番、人間らしいのだ。

何も富士山に登ったり、世界遺産に登録された、大自然に行かなくても、台所に立てば、人間らしくなれるのだ。

しかも、脳が勝手に、その、偉大なるブレークスルーのときの感動を覚えているらしく、最初に、調理したころの、古代の記憶が、脳の奥の方から、自然と、語りかけてくるのだ。

私はやったことがないが、いわゆる欧米のハンティングなんかも、かなり、人間らしい、行為なので、ああいうことに、貴族みたいな金持ちが夢中になるのも、何か、それをやっていると、とても重要なことを、体験している気分になれるからだろう。

このように、人間らしさ、と、自然は、全然違うのです。

しかし、争いごとや、競争が、人間らしいかどうか、という、つまり、戦争か平和か、という問題は、

まだまだ、答えが出そうにありません。共産主義は、大いなる実験でしたが、それと同時に、平和主義日本、というのも、大いなる実験である可能性があるが、、

いくら平和主義を唱えても、隣の兄ちゃんが、核で脅してきたら、対抗せざるをえないが、それでも、大いなる実験たる、平和主義日本を、貫こうとしている、本流的な、良き日本市民は、恐らく、人類の歴史の中でも、

かなり珍しいことをやっている可能性が高い、と思う。

でも、丸腰しです、といってるようなもんだから、色々と、かつ上げされたり、脅されたりしてるのが、事実だ。

それでも、丸腰しで、歩き続けるのが、平和主義日本の、進むべき道なんだろうか?

なんとなく、少しだけ、その、「平和主義という、概念」が、わかったような気がしてきたが、

はたして、それは、人間的に、、、常識 的 なんだろうか?

おそらく違うだろう。

しかし、だからこそ、何か、特殊な意味での、やりがいがあるのかもしれない。

なので、こういった具合で、常識 が最後に行き着く場所であるはずなのだが、

戦争と平和、競争と勝敗 というような世界においては、必ずしも、常識ではないケースが、ありえると思え、それが、人間を人間らしくしているのかもしれない。

それでも、やはり、人間は、恐らく、人間らしい常識に、言われなくても、自然と帰ってくるように、恐らく、最初から、つくられている、と思えてきた。

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