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真夜中、例のごとく、アメリカの株式の調査をしていた。ロッキードマーチンや、我が万年塩漬け株の、クローンの会社が、今日の、京都大学のES細胞のニュースで上がるかな、なんて、思いながら。

すると、ふと、ニュースのリストの中に、Ron Nakamotoという人が、ロッキードの子会社の社長になる、と書いてあった。ロン・ナカモト?なんていう名前だから、日系人なんだろうな、と思いながら、アメリカの軍事産業というような、恐らく、アメリカ人臭い?ところで、子会社とはいえ、社長になれるんだから、立派な人なのかな、と思って、検索してみた。

そこで、私は、ある面白い記事に出くわした。それは、上記、ナカモト氏とは関係ないのだが、アジア系アメリカ人が、今まで、アメリカ軍にどう貢献してきたか、という、なにやら、車椅子に座ったままの、名誉の負傷?でもしたのか?アジア人女性で、胸のあたりに、数々の軍功を現しているような、メダルなどが、輝いている。

この人は、なにやら、アジア系アメリカ人の歴史の専門家らしい。そういえば、私の通った大学にも、アジア系アメリカ人研究、という学部さえあった。なんでそんなものが、人口の1-2%の人たちのことを勉強するんだろうなあ、とか思いながら、不思議だったが、この、車椅子の名誉の負傷?のCHO中佐?大佐?の演説には感銘すべき、というか、なんとなく、私を悲しませる、何かがあった。

最近、エドウィン ライシャワーという人が、戦後の日本大使としてではなく、戦時中に何を行っていたのか、という、詳細な本が出たそうだ。

それによると、あの、親日で有名だったライシャワーさんだが、徹底した、日本人将校クラスの、マインドコントロール作戦に従事していたそうだ。

それは、主に、ライシャワー氏が、幼少の頃、から、中学生くらいまでだったか、日本で育った経験から、日本人は、将校クラスを把握すれば、後の残りは、その命令に従うから、彼らが、段々と、弱気になるように、日本軍の劣勢ぶりなどを、真面目なニュースと共に、ラジオ放送するという作戦だったそうだ。

当時の日本軍では、ラジオの携帯は、将校クラスにしか許されていなかったそうだが、そういう、マインドコントロール作戦は、ライシャワー氏自身が、考え付いたのか、この隠れた作戦は、非常に大きな功績とみなされ、アメリカ軍勝利への、大きな貢献をしたということで、表彰されたそうだ。

さて、そこで、いかに、ライシャワーが優秀であったとしても、そこには、助手や、アシスタントがいただろうという、当たり前のことを、私は、すっかり、気づかなかったが、

そこで、前述の、車椅子の、アジア系アメリカ人研究か、Choさんの、スピーチによると、日系人が、第442部隊で、通常、部隊というのは、4500人であるのに、18000人の日系人部隊が出来上がり、イタリア戦線で、大活躍し、多くのメダルを取った、と、誇らしげに、アジア系アメリカ人軍人として、Cho氏は、聴衆に語るのであった。

しかし、そこで、Cho氏は、実に面白いことを言う。

しかし、あまり知られていないのは、日系人のうち、6500人は、情報将校として働き、そのうち、4000人あまりは、言語系の、つまり、通訳とか、そういう意味での情報部隊に配置され、これまた、大成果をあげた、というのである。

そういえば、そういう話、聞いたことあるな、と思いながら、また、前述、ライシャワー氏の話が脳裏をよぎった。

そうか!そういうことだったのか!と、私は思った。

なるほど、道理で、日本軍は、あそこまで、読まれていたのか?と、そういう意味で、ひどく悲しくなった。

去年だったか、日系人の元軍人で、初めて、そういう話を、告白したとかで、BSか何かで、放送していたような記憶があるが、

こういう人たちの心境っていうのは、ホントに辛いんだろうなあとか、急に思えてきた。

私の行った大学には、やたらと、アジア系アメリカ人の学生が多かった。なんと、全生徒の3分の1がそうだった。しかし、その、ほとんどは、アメリカの市民権もしくは、グリーンカード(永住権)を持ったアメリカ人だった。

台湾人の女の子が言っていたが、5年くらいアメリカに住んだという証明があると、19歳だったかまでに、アメリカ人であるという、宣誓のような、儀式をやると、永住権がもらえるか、もしくは、アメリカ人国籍になる、ということらしかった。

その子は、ちょうど、その儀式を済ませてきた、と、なにやら、サバサバとしていたのが印象的だったが、

当時、そういう、アメリカ人と化した、アジア人と、当時は、アメリカの潜在的脅威とされていた、日本、について、語り合うとき、なんとなく、苦しかった。

彼らの中には、必死になって、アメリカ風にならなければ、と、努力している者も多く。また、アメリカで生まれ育った、2世、3世などといわれる、日系人から、フィリピン人まで、色々いた。

彼らのほとんどは、理科系とか、医学専攻とか、弁護士とかを目指す学部にいる場合が多くて、少数民族として、確実にアメリカという異郷で、人生を送るという意味では、決意が、相当、違って見えた。

太平洋戦争のときの、日系人は、さぞかし大変だったろうな、と思えたりもした。そういうとき、私は、実に複雑な思いにかられることが多かった。

私の心の辞書の中には、そういう事柄に関する、対処法がなかった。なので、実に、困ることが多かったように思う。

彼らは、自分たちはアメリカ人だといい、立派な英語を話し、教養もある人たちだった。しかし、かといって、アメリカ人社会において、主役的立場になれるかといえば、決してそうではないと思えた。

確かに、中には、アメリカで大成功しているアジア系アメリカ人も数多くいたが、彼らには、認めてもらわなければいけない、という使命感が、強くあるように見えた。

それは、実に、隠れた野望のようなもので、実に、ある種、さわやかなものだった。

アジアといっても、ある程度裕福な国とそうでない国、また、アジア系移民といっても、裕福なアジア系移民と、そうでないアジア系移民がいる。

また、同じアジア系移民でも、私くらいの英語レベルの人と、かなり、英語レベルが低い人もいた。

そういう人も、やはり、アメリカ人となると決めたような人は、それなりの、決意とともに、国に尽くさなければいけない、と思っているように見えた。

そういう場合の、彼らのけな気な姿は、何か、こう、まるで、人生の選択肢がない、運命を背負った、なんとなく、演歌が似合う、悲しい世界があるように、私には見えてしょうがなかった。

彼らは、私のような、奇妙な日本人が、好きだったように思える。彼らにすれば、私は、故郷からやってきた、意外と、モダンな?ある程度、アメリカのこともわかっている、英語も話す、ある種の、面白い人、だったようだ。

アメリカ在住の最初の頃は、私の周りには、田舎だったせいもあって、いわゆる白人ばっかりだったが、そのエリート系大学とされるところでは、全く違っていて、アメリカで生まれ育った、アジア系アメリカ人が、独特の世界を作っており、彼らは、お互いに、切磋琢磨しあい、助け合っていた。

と同時に、ときおり、少数派であるということの、辛さのようなものを、噛み締めているような、悲しげな顔を見せることが多かったように思える。

ちなみに、最も古いアジア系移民は、皮肉なことに、黒人奴隷解放後に、アメリカに来たことになっている。

黒人奴隷がいきなり法律で、開放されることとなり、いきなり労働力を失った、英米諸国では、植民地であった、インド、そして、人身売買などで、中国、そして、イギリスの奴隷的属国であったアイルランド(アイルランド人は、アメリカ大陸に奴隷として連れてこられた、唯一の白人である。この歴史は、物凄い悲惨さがつきまとう、実は今でも、イギリス連邦の、白人肉体労働者は、アイルランド出身者が多い。しかし、アイルランド人は、それを誇りにしているので、自分たちは、他の青白い白人とは、違うんだ!と、やや無理がありそうだが、誇りに思っている。なので、私のアイルランド系アメリカ人の友人もそうだったが、彼らは、必ず、私はアイリッシュです。と、必ず、自己紹介する。こっちが聞かないでも、必ず、いう。ちなみに、アメリカでは、韓国人は、聞かれないでも、私はコリアンであって、ジャパニーズではない!と怒りながらいうので、なんでだろうか?と首をかしげられることがあるらしい)などから、肉体労働者その他の労働者を、そういった国から、補充した。

アメリカの鉄道は、中国人と、アイルランド人が造ったというのは、有名で、西部劇なんかでも、時々、そういうシーンが出てくる。

ちなみに、こういう背景から、アイルランド系アメリカ人や、アイルランド系オーストラリア人にいたるまで、彼らには、何か共通した、異様に強い、反骨精神がある。と同時に、実に明瞭な、正義感の持ち主だったりして、ニューヨークの、消防士とか、警察官とかは、アイルランド系が多いのが有名だ。飲み屋もそうだ。ケネディ大統領のお父さんは、禁酒法の時代に、飲み屋として、大もうけしたのだ。

というわけで、アジア系アメリカ人は、実質的に奴隷として、アメリカに来たというのが、タブーであるが、正しい。と同時に、悲しきアイルランド人もそうなのだ。そこが、私の友人の心を複雑にしていたのだと、2,3年前、司馬遼太郎の、「アイルランド物語」を読んで、初めてわかったりした。

司馬さんによれば、アイルランド人というのは、百戦百勝ならぬ、百戦百敗でも、自分たちは勝った、というような人たちであると、これまた、見事に特徴を言い当てている。と思うよううな、そんな人たちだ。

しかし、話を元に戻すと、やはり、アジア系アメリカ人であるというのは、凄く大変なんだろうな、というのは、特に、フィリピン系アメリカ人を見るたびに、そう思えて、とても悲しくなることがあった。

フィリピーナ、というのは、海外で、外貨を稼ぐために、出稼ぎに出る、フィリピン人女性のことだが、いわゆる、お手伝いさん、看護婦とか、そういう仕事が多い。こないだ見た映画では、そういう人は、なかなか、故郷の子供たちに、会うことができず、子供が複雑な心境になっていくことがあるとしった。

そういう女の子と、仲良くなったことがあった。彼女が話す人生のストーリーは、かなり、壮絶だった。母親が、フィリピンのマニラで、アメリカ兵に声をかけられ、結婚し、アメリカの、ど田舎に。。フィリピン人の前の夫との間に3人の子供がおり、既に子持ちでありながら、アメリカ兵と結婚したが、この男が、どうしようもない、暴力男で、母は、子供を守るために、正真正銘、喧嘩していたそうだ。フォークで旦那の腕をさしたことまである、と、それくらいひどく、彼女も、夕食を食べさせないなどと、家を追い出されて、兄弟3人で、一晩中泣いていた、とか、想像するだけで、あっけにとられてしまうような、残酷物語ばかりだった。

兄弟3人は、これ以上は耐えられないと、新しいお父さんとの間に生まれた赤ちゃんを残して、コロラドの、ど田舎から、ロサンゼルスという都会へ、引っ越したそうだった。そこで、彼女は、泊まる家もなく、知り合いを伝って、居候をして、暮らしたという。当然、毎日バイト生活で、お兄さんが、懸命になって、いろんな仕事をしたそうだった。

彼女のようなアジア系アメリカ人は、彼女のように、真面目に働き、勉強して、ちゃんとした大学に入って、ちゃんとした仕事を得るか、当時、流行していた、ロサンゼルスの、フィリピン系ギャング団などに入って、麻薬売買とか、そういうマフィアな世界に入るとか、そういう、恐ろしい選択肢があったという。

ある日、彼女が泣き崩れているので、わけを聞くと、彼女の友人だった人が、トイレで刺されて死んでいた、ということを、聞いたというのだった。そういう、いわゆる、内部抗争、というようなものは、ニュースにもならず、新聞にも載らないんだろうな、と、そう思うと、私は、どうすればいいのか?わからなくなって、思わず、、、、・・・。。。

というのが、私の知っているアジア系アメリカ人で、悲しい運命を持った人たちの話だが、この手の話は、驚くほど多いが、あまりにも、ディープで、書くだけで辛い。

ロス暴動のときの、韓国人商店(コンビニのようなところ、やけにおおい)で見た、乱暴とかも凄かったが。と同時に、黒人に、なぐられ続けるメガネ青白白人生徒なんていうのも、すざましかった。

私は時に不思議に思った。なんで、私は、一回も、ああいう目にあわないのだろうか?と。

しかし、そういうことは、最後まで私に起こることはなかった。まあ、彼らの恐ろしい出来事に比べれば、私がちょっと感じた、なんとなく、ヘンだな、というような、色々なことは、たいした問題ではない。

しかし、アジア人であるって、大変なんだな、と思った、ただ、それだけだ。もし、明治維新がなかったら、どうだったんだろうか?と、当時はよく思った。

最近は、アジアも随分とよくなって、恐らく、アジア系アメリカ人も、随分と良くなったのかもしれないが、まだまだ、貧困は存在する。

そういう中、アメリカ人、となった、彼らは、悲しくても、アメリカに貢献しなくてはいけない。彼らは、私が去った後、10年間、シリコンバレーで、IT革命を支えたという。











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