忍者ブログ
社会・思想系ブログ(ブログ内検索、ぜひ、使って下さい)
[6] [5] [4] [3] [2] [1]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

欧米人にとって、世の中は、欧米とイスラム、でしかない。これがまず、基本としてある。

そして、しかし、昔、欧米人が東アジアで色々と悪いことをやったというのをわかってもいる。彼らも、それくらいはわかる。

そして、そういう彼らには、日本軍の行動や、世界の反帝国運動が、実に恐ろしく感じられる場合が多々あるんではないかとも思える。

それが、人間として、普通ではないかと思える。西洋といえども、一度、モンゴル人などに、皆殺しに合っているので、やはり、恐いという感覚が、どこかに残るんじゃないかと思う。

そんな恐怖感を打ち消すための、プロパガンダとして、よく使われると思われるのが、2種類ほどある。

1)彼らは、人間以下のような、文明的に遅れた人たちである(あった)から、(我々が)殺したとしても、罪にならない。

2)自分たちは、物凄い優秀であり、アレキサンダー大王や、大英帝国や、もしくは敗れたとしても、スパルタ兵のように強く、スーパーマンのように強く、、、といいながら、最後に原爆の映像を流して、安心する。。。(翌日、路上で東洋人を見て、ぎょっとする、、、)

というような2パターンかと思える。

こういった、報道、映画、ドラマなどで、たまに見かけられる報道のやり方は、古くは、中華思想に始まり、周辺の民族を殺戮する際、彼らに、人間以外の名前をつけたりしたのが、最も古いものであろうか。

2番目のやり方は、何らかの、不安感が生じてきたときに、大声をあげて、いや!自分たちは、本当は、かつて大勝利した○○や△△のように、同じ血を引いており、、よって、我々は強いのだ!と、いう風に、無理矢理、本当は恐いというところを、打ち消してしまう、という方法だ。

これと共に存在するのは、負けた側の物語を美化するという、あまり、とられない方法論であり、これをやられると、上記1)、2)などの方法論で、せっかく、国民意識とか、民族意識を高ぶらせようとしていたのに、なんていう邪魔をするんだ!ということになってしまう。

こういう、やり取りは、集団に帰属するという人間の習性からして、ごく自然な行動と思われる。

こういった議論というか、報道、映画などで使われる論理は、およそ、科学的に正しいというような世界とは、かけ離れているのが普通で、それは、かけ離れていなければいけない。逆にそうでないと、カリスマ性とか神聖さなど、要するに殺戮を正当化するための、脳への愛撫?が失敗してしまう。

日本人が、中国人に歴史問題といわれて、あんまり言われると、怒りたくなったり、苦しくなったり、胃が痛くなってきたりするのだが、それは、あくまでも、最近のことであり、やっと、中国や韓国が、日本と同じくらいの生活水準とか、技術水準だとかが身についてきたので、また、日本より優れている場合があったり、日本が協力せざるを得ない場合が出てきたりしているので、向こうに合わせないといけない機会が増えたので、そういう、嫌な過去をほじくりかえされても、何もいえなくなってきたというわけだが、これも、実に人間らしいではないか、と思える。

英米国民も人間であるから、彼らが黒人などに行ってきたこととか、アジア人に対して行ってきたことなど、もしくは、魔女狩りなどに隠される、実はかなりひどい女性蔑視の伝統からくる、巨大な罪意識を、まともな人は感じる。

不思議なことに、人間は、大人になると、どういうわけか、こういう罪意識を段々と隠そうとする傾向になる。

しかし、私は高校2年からアメリカに住んでいて、大学4年までいたが、そうすると、それが見えてしまったのである。彼らが、急に変わっていくのがわかってしまった、というか、やっぱりそうか、というか。

ただ、そういうことも含めて、人間としては、いかにも人間らしい、ともいえると思える。

とあるウェブサイトで、英米の映画の評論と、こういった、罪意識を覆い隠すために、作られ続ける、英米の映画などの評論と思われる投稿で、海外の映画で、日本人が、段々と、人間扱いされるようになってきた、というような趣旨のことを書いていた。

その人によると、イギリスなどでは、日本が、なんとなく、馬鹿にされる対象というか、コケにされる対象として描かれることが多いという。

では、日本は、つい、こないだまで、どうやって中国人を描いていたか、といえば、全く、人のことは言えないくらい、ひどい扱いであったと思う。

在日朝鮮人とか、在日韓国人などは、コケにする対象ですらないくらいひどかったし、あんまりひどいので、「見なかったことにする」というような感じですらあった。

最近、イギリスの会社が、アフリカで紛争で殺し合いの結果得られているダイアモンドを売って、巨万の富を、ずっと得ているというような番組(こういうのは、極めて良心的と思える、と同時に、こういう良心的なものが出てくると、必ず、それに反対する、いわゆる既得権者が出てきて、こういう、甘い考えのやつらがいると、「奴ら」はつけあがる、、などという人が必ず出てくるものだ)

こういう、見えない、もしくは、ないとされているような問題も、段々と、緩和されていく方向にある。しかし、胃が痛いのは、まだまだ続きそうだ、、残念だが。

最近、見た日本の映画で、在日韓国人が出てくるもので、上に述べたような評論方法論でいうと、やっと、背景としてではなく、主人公として、在日韓国人が描かれている映画が出てきた。

一昔前ならば、ニンニク臭いとか、よく考え付くものだ、と感心するような様々な馬鹿にする方法で、決して、同等なようには、ならないように、どういうわけか、工夫されてきた、日本におけるアジア人問題だったが、最近は、随分と変わってきた。

しかし、それと同時に、いまだに、影ながら罪意識を持っている人は、なかなか、そういう平等性を評価できないし、特に、そういう旧被差別民が、犯罪を犯した場合などは、急によってたかっていじめるというようなパターンがあって、これも、人間らしいといえば、人間らしいもので、

かつて、アメリカの日系人などは、正しく、こういう差別的な対象だったんではないかと思うわけだが、段々と、それが改善されてきており、しかし、最近、たとえば、イギリス人女性が日本で、無残な方法で殺されるとか、そういうことがあると、普段は、すっかり忘れていたイギリスの報道が、急に色々と、まるで中国の謝罪を求める報道のマシンガンのような感じで、色々と報道する、

実は、この構造、日本の拉致問題に使われている方法論とそっくりである。

ウィンストン・チャーチル、というイギリス人は、第二次大戦でイギリスを率いた。しかし、この人の人生は、どちらかというと、失敗が多い。たとえば、第一次大戦では、トルコの首都を直接攻める、ガリポリ作戦で、トルコ軍に、大敗北している。

アメリカにとっては、第二次大戦は、大勝利だったが、イギリスにとっては、決して大勝利ではない。しかし、それでも、ほめてあげたくなるというのが、愛国心なんだろうか。チャーチルが語った、第二次大戦に関する本は、ベストセラーになり、ノーベル賞までもらうことになった。

意外と、飾ろうとせず、ところどころで本音を述べているように見える。

一番、印象に残るのは、日本に原爆を落として、勝利する際、これで良かったのだ、というようなことをいい、それでもって、もし、我々が負けていたら、どんな罪を追求されていたかを考えると、これで良かったのだ、となっているところだった。

もし、イギリスが大英帝国時代に行った、数々の世界記録的な殺戮や、占領や、侵略を、リストにして、挙げられたら、いったい、何人、歴史上の人物を死刑とか、糾弾しなければいけないか、想像もつかない。

ちなみに、こういうことに気づいてしまい、人間らしく、罪意識を感じるイギリス人も、やはり、いて、彼らは、大英帝国は、悪いこともたくさんしたが、いいこともたくさんして、近代化に貢献した。というようなことをいうが、そんなことは、日本人のほうが良く知っていたりする。

つまり、そういうことを言うことによって、本当はすみませんでした、と思っていることを暴露しているのである。

アメリカ人で、原爆について、なんだか回りくねった解釈を披露する人がいたら、それも同じであり、また、日本人で、朝鮮人とか、中国人に対して、ひどくまわりくどい言い方をする人がいたら、それも同じだ。

ただ、イギリスとか、スペインとか、いわゆる欧米の場合、規模が違いすぎるので、それを覆い隠すための、さまざまな、工夫、それは、もはや、職人芸の域に達していると思えるが、それは、巨大なものであり、映画とか、報道において、一定の地位を占める、産業と化している。

日本人は、恐らく、モンゴル人が、ヨーロッパ人を皆殺しにした、というのを見て、驚くと同時に、何かどうしても興奮してしまう、ということがあろうかとも思える。それは、何か人種的なものであって、人間らしいんだと思う。

と同時に、欧米人が、どうしても原爆の罪を認めないどころか、それを見て、思わず興奮してしまう、というような人がいるのを私は知っているが、それも、もしかすると人間らしいのかもしれない。

問題は、そういう、人間らしさが、思わず、出ちゃった場合、その後、どうするか、とか、それが、つまり、裏側がばれちゃった場合、どうするか、とか、その辺が、本当の問題で、力量が問われるところだろうか。

パターンは最初に述べたように2種類で

1)相手は背景のような取るに足らない人たちだから、殺してしまったり、差別してしまったのは仕方がなかった。

2)自分たちは、○○のように偉大な先祖がいて、よって、素晴らしい。--->彼らがやられたのはやむをえない。自分たちが凄すぎた!

実は2)のほうが、危険というか、その裏に、罪意識があるのが見え見えだったりする場合が多い。

たまに、ある国が調子が良くなってきたり、調子が良すぎて怖くなってきたり、調子がいいのに、ぞっとするような、罪意識に襲われたとき、2)の系統の、マッチョ主義というか、強さにすがるような傾向が現れることがある。

最近の欧米もしくは、どちらかというと、英米は、そういうことが多いような気がする。欧州にとって、イスラム世界というのは、かなり特殊な存在だ。

意図的なのか、あまり表に出てこないが、イスラム世界では、明治維新の頃まで、何千、何万という数の、キリスト教ヨーロッパ人が、奴隷として存在していた。それは、地中海の伝統でもあって、何百年も続いていたことで、どうやら、タブー中のタブーなんだろう、あんまりメディアに出てこない。

こういう背景とか、あのウィーンが、何回も、オスマントルコに包囲されたことがあったり、ルネッサンスのイタリヤの真横までオスマントルコが来ていたことがあったとか、そこには、何か欧州人の根源的なところにある、巨大な恐怖が見え隠れするのだが、最近のイラクでの出来事で、それが、どうも、見え隠れするのだが、欧米メディアは、その辺の、微妙なところが見えないように、見えないように、必死になっているように思える。

まあ、それも、人間らしいといえば、人間らしい。と同時に、昔の日本がそうだった、とか良く言われているように、そういうようなことをするってことは、かなり、追い込まれているというか、危険というか、、まあ、それも、人間らしいのかもしれないが。。。

この辺の問題、なるべく早く悟らせてあげたほうが、彼らにとっても身のためなんじゃないかと思える。

私はこういう話を、欧米人に、何度となく、言い聞かせたことがあるが、彼らは最初は猛烈に思想的に反抗しようとするが、段々と、人間的な罪意識などからか、最後には認める。大抵の西洋人はそうだ。

しかし、たまに、過激派がいて、そういうのは、一種の病気だから、特に、国が勢いついてるときとか、途方もなく落ち込んじゃったときとかもだが。。

まあ、今、こんなことを書いている自分は、ある程度余裕があるんだろうか。

10年くらいたつと、こういうのは、立場が逆になったりすることもある。それが恐ろしいところだ。
PR

お名前
タイトル
メールアドレス
URL
コメント
パスワード



トラックバック:


忍者ブログ [PR]
ブログ内検索
カウンター