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日本のアングラ的な、何らかの模擬的エリート主義のような世界(例:2ちゃんねる)では、結局のところ、いわゆる、虎の威を借る狐、以上でも以下でもない、というのが、何か、日本的限界を示しているような気がする。

この結論に至るまで、結構、いろんな掲示板(特にヤフーの株式掲示板など)を見たりしてきたが、結局、自分も人のことをいえないのだが、

・世界ではこうなってる
・モルガンがこういってる
・○○大先生がこういってる

いくらでも書くことができるが、仕手株屋という稼業とか、偽の宗教とかもそうだが、どうも、そういう、何と言うか、結局、自分には、何もないんだが、どっかの権威を借りてきて、自分が何とか、それから得できないか?という、何らかの、依存思考が、見え隠れする。

かくいう私も、いざ、自分のお金が、かかってるとなると、そういう、神頼みならぬ、虎の威頼みのような、権力の拝借などを、ヤフー掲示板とか、株式掲示板とかで、随分とやった覚えがある。

しかし、所詮、実力とか、現実とか、流れというようなものが、根底にあるので、そういう、その場しのぎ的な、方法論では、結局、うまくいかないことが多いとも思える。

もちろん、そういうので、大当たりすることもおおいにありえる。

日本が経済的に絶好調だった80年代とかに、中国人のインテリが、日本を、アメリカの威を借る狐、と見立てて、小日本人、と、ある種の負け惜しみと、嫉妬と、侮蔑と憎しみをこめて、呼ぶことがはやった時期があったようだが、あながち間違っていないかもしれない、などと、自信を失っている今日、このごろだが。

そもそも、本当に能力があるというか、いわゆる、本当のエリートというか、優れた人間とは、そういった、全ての背景を必要とせず、どこでもやっていけるようだ。少なくとも、人間のうち、何%かが、そういう才能を持って生まれてきており、そういう人は、集団に属して貢献する場合もあるし、もって生まれた天才を生かして、自分の世界を作る、ということもあるかもしれない。

私は音楽家として、坂本龍一氏がとても好きだったが、アメリカに住んでみて、はじめて、凄いと思って、急に好きになった。日本にいるときはわからなかったが、坂本氏の音楽は、アメリカのような人種のるつぼにおいて、日本などでは通じるコピー音楽とか、2番煎じ音楽とは、全く異なり、独自の世界を築いているというのが、アメリカにいって、初めてわかったからだ。

こういう体験をする日本人留学生とか、中長期の海外滞在者は多いのではないかと思えるが、どうなんだろうか?

前回のブログを書いてから、アインランドとか、リバータリアン思想が、気になって、気になって、何か、間違ったことをいっていないか?と、調べてもみたが、どうも、結構、正しい理解になってきたかな、とも思えてきた。

と同時に、リバータリアン思想は、日本語でいうと、もしくは、東洋的な発想でいうと、「誰なのか?」というようなことに興味がわいた。

アインランド女史の描く、何らかのエリート社会の主人公は、決して、虎の威を借る狐ではない。

最近流?の言葉でいえば、「どこへ行っても通じるような才能を持ったエリート」について、アインランド女史は、語り続けるのである。

そういうところに、前回のブログで書いたような、エリート大学生が、アメリカで、悩んで、アインランドにはまるわけだが、そこで、なぜか私は、司馬遼太郎と、比較したが、最近の色々な研究によると、どうも、坂本竜馬は、司馬遼太郎が、描いたような、エリートではなかったのかもしれない、ということになっているようだが、

少なくとも、司馬遼太郎の小説の世界の主人公は、いわゆる「どこへ行っても通じるエリート物語」である場合が、多い。時代背景が、鎌倉時代であれば、義経であるとか、どちらかというと、司馬氏が注目したのは、織田信長のような人物よりも、もしくは、秀吉よりも、秀吉の参謀であった、つまり、頭脳であった=どこでも通じるエリートのような人、黒田官兵衛とか、日露戦争では、戦争の勝敗を決めた、作戦の考案者であったとされる人など、いわゆる、本当のエリートについて、書かれている場合が多い。

それが、史実とは結構違っていた、というのはあるのかもしれないが、それは、しょせんは、小説だ。いたしかたない。問題は、それが、アインランド女史のエリート世界に出てくる主人公のように、「自分はエリートだけども、誰にも支配されたくないし、支配したくもない」というような、かっこいい!世界、という意味では同じだ、ということが、重要なんじゃないかと思う。


そういう、かっこいいエリート主義っていうのは、恐らく、原型としては、1920年代くらいのアメリカで、なにか、原型のようなものができて、なんとなく、世界中に広まったんじゃないかと思う。

007 という、ジェームスボンド、なんていう、一部の人には、しびれる?(私はあまりしびれない口だ。どちらかというと、素直に嫉妬する、寅さんのようなケースだなw)、ああいう世界像、エリート像というのも、恐らく、アインランド女史が、築き上げたような、何らかのエリート主義と、似ている。

シリコンバレー、とか、ベンチャー、とかが、本当に意味するところも、それも同じで、やっと、アインランドおよび、リバータリアン主義者が、言いたいことが、恐らく、正確にわかってきた。

東洋の歴史でいえば、諸葛孔明とか、韓信、とか、そういう世界が、東洋の本当のエリート的な、リバータリアンだったのかもしれない、というような、言い方ができる、でいいのかな?

ただ、問題は、世の中は、全員が、ジェームスボンドではなく、寅さんのような人がたくさんいるし、「その他大勢」で片付けられてしまうような、庶民が、アインランド先生のお気に入りの、オブジェクティズムの言語を用いていうと、「それは、存在する」であって、ここが、どうも、何かしらの、魔法のトリックのように、捻じ曲げられているように思えるのだ。

アインランド女史もしくは、リバータリアン思想的な、エリート主義のような世界では、もし、私の理解が正しければ、「それは、存在する」というような、オブジェクティズムでは、「私が頭がよく、エリートであるという事実は、存在する」といっている、と解釈できる。

しかし、それと、同時に、そんなにギリシア哲学?かどっかから持ってきたのか?オブジェクティズムに凝るならば、「世の中には、頭が悪く、その他大勢、であり、貧乏で、食えない人も存在する」と、なぜ、ロシア出身なのに、アインランドは言えなかったのか?

もしかすると、彼女はロシアでも貴族みたいな人で、庶民という概念を知らないで済んだような人だったんじゃないだろうか?その辺の、裏側は、真剣に疑う必要がありそうだと思える。いわゆる、ロシア革命前後で、逃げ出した金持ち=アメリカ主義者、というか、極端なエリート主義者。とも考えられる。

しかし、それでも、アインランド主義では、プラトンだったかの、超エリート主義(エリートは、庶民を指導する権利がある、などと考える恐ろしい主義)とは、異なり、私が正しければ、リバータリアン的なエリート主義では、エリートとして、自分の道を歩み、人には邪魔させないが、「と同時に、他の人の邪魔もしない」ということになっている。

しかし、現実的なことしか、頭に浮かばない私からすると、そんなにかっこいいエリートは、ほんの数%しかいなくて、まあ、そういう連中が、そういう思想にかぶれて、エリート集団気取りをして、たとえば、日本だったら、外資系の、エリート集団であるとか、なんとか、かっこよくしてればいいが、

まあ、しょせん、そんなものは長続きしないんじゃないの?なんて、思えてしまうが、

確かに、アインランド女史が、生きていた時代の、アメリカは、まだ、ベンチャー精神とかがないがしろにされる社会で、いわゆる最近でいうところの、アメリカ的資本主義とか、実力主義とか、そういうのとは、違っていて、そういう、硬い社会を打ち破るために、ビートルズとか、ヒッピーとか、そういうのを、真面目になってやっていたころで、

恐らく、そういう時代背景において、教祖的なカリスマ的な存在でありつづけたのは、きっと、最近までの日本がそうだったように、恐らく、IQなどが、途方もなく高い人が、組織の中に、埋もれてしまう、というような、今日的な問題を、できれば、なくしたい、という、今まで、さんざんな目にあってきた、エリートたちを、本当のエリートたちを、何とかしなければいけない、という、本当の願いだったんだろうか?だとすれば、それは、素晴らしくもあるのだが。

どこかに、手品のトリックのようなものが、隠されているようにも思える。

ただ、結局、本物と、虎の威を借る偽者、は、いつの時代にもいて、それこそが、本当の問題であると、どうも、そっちのほうが、本当の問題だ。

自分の都合のよいように、思想などを曲げて解釈して、自分の行為を正当化したり、というほうが、恐ろしい。

ただ、やはり、色々な人に、評価されている、この不思議なアインランド女史は、やはり、何か、人々を考えさせる、何らかの問題提起を行ったのは、確かなようだ。

アメリカにおいて、大量生産とか、家族的な会社経営、というのを、はじめて行ったのは、自動車王ヘンリーフォードだとされる。フォードは、社員のための、食事、とか、家とか、娯楽施設なども作った。そういう人だった。仕事はきついが、自給は、当時の普通賃金の3-4倍だった。

いわゆる才能溢れる人が、フォードのように、庶民を幸せにしようと努力するか、それとも、、、エジソンのように、自分の世界で、最高に能力を発揮するか、というような、本当の大きな問題が、そこには、ある。

日本の会社システムでは、長年、そういう問題があったが、会社のため、社会のため、国のため、というような思いのほうが、強い時代が続いた。

しかし、最近はそうでなくなってきた、ともいう。そこで、偽者エリートとか、虎の威を借る系エリートなども出没するようになったが、

恐らく、日本では、エジソンが生まれても、人生のどこかで潰されるんじゃないかと思う。しかし、松下幸之助は、エジソンではなかったが、フォードにはなれた。

ソニーやホンダは、日本には、生まれたが、アップルが生まれるかどうか?というような問題も似ているかとも思える。

日本でスティーブジョブスが生まれても、アップル社が誕生するかどうか、疑わしいというようなところがある。

そういう意味でのエリートというか、天才を、どうするかという問題が、その、参考書として、アインランド思想体系とか、架空であるとしても、司馬遼太郎的な、エリート主義があると、そんな風に、私の寅さん江戸っ子な、脳みそは、ようやく、理解しはじめたかもしれない。





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