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昨日くらいから、私は非常にうれしい。なぜかというと、長年、わけがわからなかった物理学の一連の法則や、数学的表現の意味するところが、突然、まるで、脳の中に閃光がはなたれたように、理解できてしまったと感じているからである。

わかったと思っていることは、

おそらく、相対論的量子論の、ディラック方程式の意味するところが、わかってきた。

そのさいに、なぜ、虚数が回転を意味する際に出てくるのか、ようやく理解できた。

ディラックの行列というのが、なんで、相対論的であるのか?という問いが、X軸、Y軸が、直角ではなく、ある角度で傾いているということを意味し、そのさい、虚数が、その傾きの角度を意味するということを理解した。

となるが、これは、実際の式とかを見ると、まさしく、わけがわからないのだが、それが、私でもわかったような気がするので、とてもうれしい。それと同時に、ディラックという人が、いかに、頭が良かったのか、恐ろしいとさえ思える。たった一人の人間が、美的感覚から、あんなに難しいことを、ああも簡潔にエレガントにまとめあげることができるということに、恐怖にも似た、もしくは、あまりにも能力に差がありすぎて、嫉妬などを通り越して、かといって、崇拝するということはなく、なんというか、圧倒されるというか、びっくりした。

まあ、ディラック方程式なんてことを理解しなくても、今後数千年、困ることもないだろうし、ディラック方程式を理解したからといって、仕事が入ることもないだろう。しかし、いわゆる、数学や物理の世界で、理解する、ということは、いかにも感動的に見えるのだが、というか、私にはそういうものなのだが、それは、学生時代に、わからないまま、試験を受けて、死の物狂いで想像力を働かせて、答案を書いたんだが、わかってから、試験を受けたかったというような、心残りがあって、また、当時のライバルに、勝てなかったとか、そういう、悔しさなどの過去の感情が色濃く残っているので、今でも、鮮明に覚えており、それが、理解できたとき、私はうれしいのだ。

こんなに平和的な幸せは他にないだろう。

聞くところによると、江戸時代後期の、日本の村や農村では、神社に、複雑な幾何学の問題の答えを張り付けたりする習慣があったそうだ。なんと、江戸時代の農民は、数学の問題を解いて、余暇を過ごしていたらしいのだ。全員がそうだとは、とても思えないが、中には、驚くべき問題や、その解き方があったという。

やっぱり、いつの時代にも、そういう天才がいるのと同時に、私のように、30代後半くらいに、ようやく、少しだけ、前に進むような、凡才がいるのだなと思うと、なんとも、悲しい思いと、自分に対する不甲斐なさのような、情けないような気分にもなりますが、まあ、しょうがない。

それにしても、あれほど、胡散臭いと思っていた、虚数とか、相対論と量子論の融合などといった、恐ろしく、シンプルな方程式なのに、信じられないほど、奥が深い世界、という、その深さに、入りこめたことは、私にとっては、すごくうれしい。ウェブ上でも、何人かの、親切な物理学の説明のサイトに、色々とヒントをもらった。おかげで、しばらくは、この、感動とともに生きられそうだ。

しかし、新しい問題が出てきて、困っていたんだが、それも、どうやら、解決しそうだ。

残念ながら、私が考えついたもしくは、理解した事柄は、既に発見されているというか、すでに分かっていることなのだが、それでも、やっぱり、わからないことがわかるようになるというのは、うれしいことだ。

しかし、そういった行為自体に、産業のように、もしくは工業のように、実用性があるかといったら、まったくなさそうだ。そもそも、数学とかは、そうだ。

それでも、うれしくなるというのは、いったい、人間にとって、何を意味するのか?正直言って、厳密に、こういう種類の感動は、脳内の、神経伝達などでは、どのように処理されているのか、実に興味深い。

パソコンのプログラミング作業でも、プログラムの、ソースコードの書き方で、やりたいことができるようになるソースコードを見つけたり、自分で思いついたり、実際に動かしてみたら、ちゃんと、予想通りにプログラムが動いた場合とか、もしくは、自作パソコンなどで、こうやればいいはずだと、組み立てていって、実際に動作するか?なんていうのも、似た世界だ。

こういう世界は、オタク的と言われたり、自己満足の世界と言われていて、一般的に、こういうことで、感動するような男は、夏でも冬でも、海でサーフィンをやっているような、日焼けしたような、がっちりしたような、かっこいい人と比べられたら、女性から見たら、実に、人気がなさそうだが、意外と、そうでない場合もあるのかもしれない。

ただ、一般的には、女性は、そういう論理的思考が苦手というよりか、それほど好きではないというのがあるようだが、こういう、ある種、世間的には、自己満足の世界と思われている領域で、ひとりで喜んでいるのは、なんだか、寂しい人生であるとか、場合によっては、キモイ人生とか、そういう風に見える場合もありえそうだ。

自分でも、ひとりで、そういうわけのわからないことを、理解したと思って喜んでいる自分の姿は、異様だ。なにかこう、魔女の男性版というか、気味が悪いと同時に、それは、ミステリアスでもある。他の人にはどう映るかわからないが、自分の中では、十分にミステリアスで、冒険なのだ。

まあでも、まだわからないことが、多すぎて、気が遠くなりそうだ。それと同時に、もっと、有用なことに時間をつかうべきだ、という、道徳の声が聞こえてくる。困ったものだ。

一番問題なのは、こういうのは、いつ、わかるか、わからないので、予定が立てられず、目標もあいまいであり、目的やゴールも、何もない。社会人的には、失格だろう。しかし、そういうことができる余裕があるという自分が、なんとなく嬉しいのと同時に、意外と世間体などを気にしたりすることがある私は、そういう自分が、それでいいのか?と、恥ずかしく思ったり、情けないと思ったりもする。

しかし、世の中、どう進化するかわからない。

中学生くらいのとき、物理学者になりたいと思った。でも、なれなかった。今は時間があるので、ひとりで勉強しているが、そういう高度な思考をできる精神状態にあることは稀であり、物理学に対する、基本的生まれつきの理解する能力のようなのが、よくても中レベルくらいだから、理解するのに、ものすごい時間がかかる。

はたして、この調子で、70歳とか80歳になって、仮に、色々と理解したとして、まあ、学習能力という意味では、どうも、50代後半くらいが、限界のように見える場合が多いけども、そういう人生は、振り返ってみて、そのtき、

良い人生だった。。と思えるか?

それとも、

なんと!くだらない人生を送ってしまったんだ!と嘆くか?

まだ、わからない、不安でもあり、少しだけ面白いとも考えられる。
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